大阪桐蔭、甲子園デビューから30年。「王者の歴史」はひとりの中学生獲得から始まった (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Kyodo News

 当時、主将を務めた玉山雅一が言う。

「PLはもちろんやし、上宮、近大付属とか強いチームがあるなかで、創部4年で甲子園に出て、夏に優勝できたっていうのは、僕らの世代がハマったということです。メンバーも何もかも、すべてのことがピタッとね」

 なぜ彼らは、産声を上げたばかりの高校に集結できたのか? 大阪桐蔭の源流を辿れば、じつはPL学園が深く関係している。

 鶴岡泰の指揮のもと、PL学園が初の全国制覇を遂げた1978年の夏。当時1年生だった森岡正晃は、涙を流しながら深紅の大優勝旗を手にする主将・木戸克彦の雄姿を、甲子園球場のスタンドから目に焼きつけていた。

「優勝旗を持てるのはたったひとりや。この重みと涙は、キャプテンを経験したからこそわかるもんなんや」

 木戸の言葉に心が震えた森岡は「俺もPLでキャプテンになる」と決意し、実現させた。ただ、自身は「はざまの世代ですから」と自嘲するように、森岡が3年生の1980年は甲子園出場を果たしていない。しかし、2学年上の西田真次(現・真二)と木戸のバッテリー、1学年上の強打者・小早川毅彦などの先輩たちはもちろん、甲子園優勝を経験した1学年下の吉村禎章や2学年下の森浩之ら、のちにプロに進む選手たちとともにプレーできた経験を糧とした。

「僕の野球の原点はPLでの3年間です」森岡はそう断言する。

 恩師である鶴岡が、PL学園の次に指揮した高校が大阪産大高だった。森岡は近畿大時代に「教員免許を取れ」と恩師から勧められ、卒業と同時に大東校舎の教師として指導者人生をスタートさせた。そして、大阪桐蔭の誕生を期に、野球部の部長としてチームの強化を託されたのである。

 創部1年目の1988年。1期生の今中慎二が中日ドラゴンズからドラフト1位指名を受けたとはいえ、彼らの世代が夏の予選で初戦敗退だったように、戦力は乏しかった。

 名門出身の森岡は、選手の基礎能力の高さがチーム力に直結することが骨身に染みていた。PL学園には、のちに「伝説」と称される名スカウト・井元俊秀がいた。同校での監督経験もある傑物の眼力は、OBたちの錚々たる顔ぶれを見れば容易に想像がつく。井元は観察眼や決断力に優れ、なによりも行動が早かった。PL学園の血が流れる森岡は、有望選手獲得のため奔走した。

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