天理高・中村良二監督は元近鉄の苦労人。反面教師は「現役時代の自分」 (3ページ目)
【チームは監督ひとりでできるわけではない】
プロ野球を去るとき、中村は29 歳だった。結婚もしていて、幼い子どもがふたりいた。
1998年から少年硬式野球チームである藤井寺リトルシニア監督に就任したが、それは無報酬のボランティアだった。だから、アルバイトで生計を立てていた。
「子どもがまだ幼稚園と小学生だったんですが、家内は『あなたから野球を取ったら何も残らないもんね』と言って働いてくれました。平日のうち2日は少年野球の練習があり、それ以外の3日間は朝から夕方まで働いて、夜はローソンで夜勤に入っていました。2年くらいは、3日ほど寝ない生活を送りましたね」
コンビニエンスストアでアルバイトをする元プロ野球選手の姿は嫌でも目立つ。
「タテジマのローソンの制服を着て、大学生たちと一緒にシフトに入っていました。地元の店で働いていたので、知り合いに『あれ? 中村くん、何してるの?』と言われたりしましたが、『働いてるんですよ』と答えました。マニュアルがあって、陳列の仕方も決まっていて、そういうのもなんだか楽しかったですし、恥ずかしいとは思いませんでした」
9年間、中学生の指導を行なったあと、社会人野球の日本新薬の臨時コーチや大和高田クラブのコーチを経て、2008年8月に天理大学野球部の監督に。その後、2014年2月に天理高校野球部のコーチ、2015年8月には監督に就任した。
「いろいろな人に助けられて、僕はここにいます。今も、コーチやスタッフ、選手たちに支えられています。チームは監督ひとりでできるわけではなくて、トレーニングコーチがトレーニングをしっかり見てくれて、技術を教えるコーチが選手の能力を高めてくれる。甲子園に出られたのは選手の力のおかげですし、チームはコーチやスタッフがいてくれてこそ。監督の力なんてたいしたものではありません」
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