天理高・中村良二監督は元近鉄の苦労人。反面教師は「現役時代の自分」 (2ページ目)
【プロ野球で知った人との出会いの大切さ】
1989年シーズン、外国人選手のラルフ・ブライアントを中心とした打線が爆発し、近鉄はライオンズを上回って優勝した。プロ2年目の中村は10打数3安打(2二塁打、1三塁打)、4打点とある程度の存在感を示したものの、レギュラーを掴むまでには至らなかった。
「DH(指名打者)にはブライアント、ファーストには石井浩郎さん、外野にもいい選手がたくさんいました。プロ3年目、4年目にもっと頑張れたらよかったんですが......チャンスをもらっても、『打てなかったら二軍落ちだ』と自分にプレッシャーをかけてしまって、自分が小さくなってしまっていたように思います。誰かにそう言われたわけでもないのに。『ヘタしたら今年でクビになるかも』と、バカみたいに自分でプレッシャーをかけながら野球をしていました。なんて気がちっちゃいプレーヤーだったんだろうと、思い返すことがよくあります」
この後悔が、指導者になったときに大きな意味を持つことを、中村はまだ気づいていなかった。
「ほとんど二軍にいたのに、プロ野球の世界で11年もプレーできた選手ってほかにいないと思うんです。チャンスに恵まれない人が多いのに、僕は何度もチャンスをいただきました」
11年間のプロ野球人生で、中村は何を学んだのか?
「プロ野球で、人との出会いの大切さを知りました。僕が入団したときの監督は岡本伊三美さん。1988年から仰木監督にお世話になり、近鉄をやめるときの監督は佐々木恭介さん。監督やコーチ、首脳陣の方々には本当に感謝しています。僕が活躍できなかったのは、チャンスを自分で潰してしまったから。すばらしい指導者との出会いがあり、さまざまな方に教えていただいたことが今に生きているなと思います」
そういう思いが強いから、中村は今も出会いを大切にしている。
「僕は、人との出会いは人を変えられると思っています。だから、僕のところに来てくれた子たちに関して、できる限り同じ目線で、同じ指導をして、みんなにチャンスをあげたいんです。『1打席凡退したら、交代させられるかも?』と思わせないように、先発したら3、4打席は立たせるようにしています」
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