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部員9人から出発した野球部の「弱者の戦法」。
宮崎から大学日本一へ挑む (2ページ目)

  • 楊順行●文 text by Yo Nobuyuki
  • photo by Kyodo News

 卒業後は指導者を志し、大学に残り教職課程を履修すると、1年後、学校法人・大淀学園が創設する産経大の野球部監督の話が舞い込む。同法人は、鵬翔高校(前・宮崎中央高校)も運営している。「いずれは高校野球の指導を......」と考えていた三輪監督は、ふたつ返事で引き受けた。
 学校も野球部も、できたてホヤホヤ。「いい体しとるねぇ。野球やってみん?」と、キャンパスを行き交う学生たちに片っ端から声をかけるなど、部に勧誘することからのスタートだった。

 なんと集まったのは9人ギリギリ。グラウンドは系列の鵬翔高との共用で、平日は週に2日、土日は午前中しか使えず、それ以外は駐車場で素振りをしたり、トレーニングで汗を流すぐらいしかできなかった。それに練習試合をやってもらえば、ほとんどがコールドゲーム......。

 それでも1期生の9人で初出場した秋の九州地区選手権大会(以下、九州大会。当時は福岡から沖縄までの28代表によるトーナメント戦)では、初戦敗退ながら西日本工業大に0対1と善戦。1期生が4年になった1990年にはベスト4まで進出し、高校野球の指導者を夢見ていた三輪監督は「すっかり大学野球にのめり込みました」と笑う。

 その後も、春先に宮崎でキャンプを張る強豪大学の胸を借り、大型免許を取得した三輪監督がバスを運転し、積極的に遠征に出かけるなどして、少しずつだが着実に力をつけていった。

 創部20年目となった2007年春には初めて準優勝し、翌年秋も準優勝するなど、上位の常連となった。ただ、日本文理大や西日本工業大などの強豪がいる一発勝負のトーナメントである。全国への道は険しかった。

 だが2016年、大学選手権の出場枠が1つ増え、九州地区は北部(福岡、佐賀、長崎、大分)と南部(熊本、宮崎、鹿児島、沖縄)の両ブロックから代表を送り出すことになった。

 そして昨年、産経大は各県の1位校がリーグ戦で争う南部を制して、大学選手権に宮崎から初めての出場を果たした。その全国大会でもベスト8入りし、今年は連続出場を果たした。

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