池田との対決から36年。甲子園「伝説の剛腕」が高校野球に帰ってきた (2ページ目)

  • 井上幸太●文・写真 text&photo by Inoue Kota

 1度目の引退直後は、札幌のラーメン店での修業、広告代理店の起業を経験。2度目の引退後は、医療機器メーカー、下水道調査の会社に勤務した。多種多様な職に従事したが、一貫した"信念"を持ち、仕事に向き合ってきたと語る。

「プロ野球OBのひとりとして『プロ野球選手も一般社会できちんと働けることを示したい』と常々思っていました。現役生活を終えて、一般社会へと身を投じる選手は今後も数多く現れます。プロ野球界の後輩たちに、社会人としての道筋を示すことが自分の役割だと思っていたんです」

 直近ではサインメーカーに社員として勤務していた。定年まで10年を切り、会社員生活の終わりも見えてきた折に舞い込んできたのが、高校野球の指導者のオファーだった。

「中京の1学年先輩にあたる出口勝規さんが、出雲西の総監督を務めていることもあり、『考えてみてくれないか』と監督就任の打診をいただきました。お話をいただいた時点で私は53歳。定年退職という会社員としての"ゴール"も見えてきている状況でもあり、正直言うとかなり迷いましたね」

 定年まで会社員を続けるほうが、安定しているのは間違いない。それでも、2013年のプロアマ規定改訂の際にうっすらと抱いた「いつかは高校野球の指導に携われたら」という思いが、野中を駆り立てた。

「自分が現役を続けていた時代、元プロ野球選手が高校野球の指導現場に戻るには『高校教諭として10年間勤続すること』が必須条件。それもあって、現役を引退して間もないころは実現の可能性すらありませんでした。そこから規定が緩和され、教員ではない私の立場でも指導が可能となった。しかし、プロ野球OBは何百人といますし、指導者を志望している人も多い。やりたくてもチャンスがない人もいる状況で、今回のような話をいただけたのはありがたいことですし、挑戦したいという気持ちが勝りました」

 打診を受けたのは昨年の夏。そこから約1カ月悩み抜いた末、オファーを受けることを決断した。

 ここまでのセカンドキャリアを歩む上で大切にしてきた"信念"は、高校野球の指導者としても大切にしていきたいと話す。

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