池田との対決から36年。甲子園「伝説の剛腕」が高校野球に帰ってきた

  • 井上幸太●文・写真 text&photo by Inoue Kota

 1983年夏の甲子園。大会の目玉は、"3季連続優勝"の偉業がかかった池田(徳島)だった。前チームから主力として活躍していた水野雄仁(現・巨人一軍投手コーチ)が投打の柱として君臨していた王者を、当時1年生だった桑田真澄、清原和博を擁したPL学園が下しての優勝。のちに高校野球を席巻する「KKコンビ」伝説の幕開けとも言われる大会だ。

 高校野球史のなかでも燦然(さんぜん)と輝く大会のなかで、「事実上の決勝戦」とまで呼ばれた試合があった。それが、池田と中京(現・中京大中京/愛知)による準々決勝だ。"阿波の金太郎"水野と、"大会ナンバーワン投手"の呼び声高かった中京のエース右腕・野中徹博(のなか・てつひろ)による珠玉の投手戦は、スタンドを埋め尽くした5万8000人の観衆を熱狂の渦に巻き込んだ。

昨年12月に出雲西の監督に就任した野中徹博氏昨年12月に出雲西の監督に就任した野中徹博氏 そんな高校野球ファンの記憶に深く刻まれている伝説の剛腕が、高校野球に帰ってきた。昨年12月、野中が出雲西(島根)の監督に就任したのだ。

 2005年から4年間、選手兼監督として在籍した社会人クラブチームの佐久コスモスターズ(長野)時代以来の指導者復帰となる。

「社会人と比べると、高校生はまだまだ人生で経験していないことも多い。どれだけ噛み砕いて伝えられるか、同じ目線に立てるかが重要になってくると思っています。こちらに来てまだ数カ月ではありますが、想像以上に力がありますし、おもしろい選手も多いですよ」

 人々を魅了した甲子園での躍動から36年の時が経った。再び高校野球に舞い戻るまでの間、野中が過ごした半生は、"波乱万丈"のひと言で片づけられないほど濃密なものだった。

 1983年のドラフトでは1位指名を受け、阪急(現・オリックス)に入団。夢だったプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせたが、肩の故障、ウイルス性の肝炎を発症するなど不運が重なり、1989年シーズン終了後に1度目の引退を迎えた。

 その後、1993年に台湾プロ野球で現役を再開し、1994年に日本球界復帰を果たす。中日、ヤクルトで計5年プレーし、プロ生活に区切りをつけた。

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