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2度目のオリンピックは途中棄権に終わった土佐礼子の告白「マラソンを走っていた10年間は無月経だった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【「足が痛いけど、止まりたくない。やめたくないけど、足が前に進まない」】

 2008年8月17日、北京五輪の女子マラソンがスタートした。代表内定を1年前にもらい、余裕を持って練習を積み重ねてきた。5kmまではスローペースだったこともあり、前の集団について走った。だが、17kmぐらいから徐々に遅れはじめ、抜かれた選手に「頑張って!」と声をかけられた。

 この時、土佐の足には異変が起きていた。

「大会前の練習は調子がよくて、脂が乗ってきている感があったんです。それで、さらに自信をつけたいと思って追い込んだんですけど、アドレナリンが出ているし、調子がいいのでどんどん走れてしまうんです。でも、実際には体がかなり疲れていたようで、そのことに気がつかずに続けたせいで、いつもは左の外反母趾に痛みが出るんですけど、その時は初めて右の外反母趾に痛みが出ました」

 ドクターと鈴木秀夫監督と相談して、北京五輪のスタートラインに立つために、練習の際はテーピングを巻いて、練習後の治療も継続した。厳しい状況のなか、土佐を駆り立てたのはある覚悟だった。

「北京五輪で区切りをつけようと考えていて、これが最後のレースになると思っていたので、何が起きても絶対に走ると心に決めていました。ただ、気持ちはポジティブだったのですが、どうにも足が痛かった。スタート前に痛み止めの薬を服用したものの、あまり効いている感じではなく、キツいなと感じていたのですが、それでも恐ろしいことに『私はイケる、絶対に走れる』と思っていたんです。

 今、思えばすごく五輪に心を奪われていたんだと思いますね。アテネ五輪でメダルを獲れなかった悔しさもありましたが、私はもともと五輪に出られるような選手ではなかったので、簡単に五輪を走る機会を逃したくないと思っていたんです。そういった思いとは裏腹に、12km付近で痛みが鋭くなり、足を強く着けなくなった。前を行く選手たちとの差は広がり、20km過ぎには55位にまで順位を下げた。

「足が痛いけど、止まりたくない。やめたくないけど、もう足が前に進まない。その葛藤がずっと続いていました」

 力なくヨロヨロと走る姿を見かねたのだろう。25.2km地点で、夫が「もう十分だよ!やめよう!」と声を掛けた。そうして土佐は日本選手団のスタッフに抱えられるようにして止められた。それでもなお走りたい気持ちはあったが、足は限界を超えていた。

「初めての途中棄権、しかも五輪という舞台でやってしまった。これが現実なのかという悔しさと、『あぁ、終わってしまったんだな』という寂しさが入り混じって、涙が止まらなかったです」

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