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マラソン2戦目で五輪代表を決めた森下広一 先輩・谷口浩美の世界陸上優勝を見て「自分も勝てる」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【ピーキングの難しさを感じながら、五輪本番へ】

 バルセロナ五輪に向けて、森下は谷口らと合宿に入った。だが、途中で谷口は疲労骨折をして離脱してしまった。

「ひとりになったんですけど、そのほうがストレスなく取り組めました。谷口さんと一緒だと、どうしても比べてしまって。谷口さんは(練習を)あまり追い込まないタイプで、自分はとことん追い込むタイプなので、何が正解なのかと考えこんでしまいますから。ただ、ひとりになって追い込んだ結果、想定よりも10日くらいピークが早く来てしまって......。これはまずいと思いましたね」

 その後、ロンドンで時差調整をして、調子のバロメーターとして5000mを14分15秒ぐらいで走り、動きを確認した。問題なく走れたことにホッとしたのか、その夜は37度7分まで発熱し、「やばい、終わった」と思ったが、翌日には平熱に下がった。

 五輪本番のレースプランは特になかった。大きな故障もなく、東京国際マラソンからいい流れで大会前日まで調整することができていた。

 1992年8月9日、バルセロナ五輪の男子マラソンがスタートした。

 スタート時の気温は31℃。厳しい暑さの影響もあり、10kmで31分程度かかる超スローペースとなるなか、森下は誰かがペースを切り替えてくれないかと思っていた。

 レースが動きだしたのは20km過ぎ。スローの展開に痺れを切らした中山やサルバトーレ・ベッティオル(イタリア)らがペースを上げて振り落としにかかった。

「それについていったら後ろと差が開いてきたので、このままのペースで行こうと思っていました。その時点で谷口さんの姿が見えなくて......。転倒しているなんて知らないので、『あれ? いないな』と思っていました」

 谷口は22.5km地点の給水を取る際、後ろの選手のつま先がかかとに引っかかり、シューズが脱げて転倒。再びシューズを履いて走り始めるまでに30秒ほどロスしていた。

 森下は、スローペースのまま進めば谷口が有利だなと思いながら走っていたが、ペースが上がったのに加えて谷口が転倒と、気づかぬうちにメダルを争う身近なライバルがひとり消えていた。

(つづく。文中敬称略)

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森下広一(もりした・こういち)/1967年9月5日生まれ、鳥取県出身。八頭高校卒業後に旭化成に入社。宗(茂・猛)兄弟のもとで力をつけ、1991年に初マラソンの別府大分毎日マラソンで、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝。翌1992年の東京国際マラソンでも優勝し、バルセロナ五輪の出場権を得ると、その五輪本番では銀メダルを獲得。その後はケガなどで低迷し、再びマラソンを走ることなく1997年に現役引退。1999年にトヨタ自動車九州の監督に就任し、現在まで後進の指導にあたっている。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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