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マラソン2戦目で五輪代表を決めた森下広一 先輩・谷口浩美の世界陸上優勝を見て「自分も勝てる」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【バルセロナ五輪をかけた中山竹通との再戦】

 前年の東京世界陸上のマラソンを制した先輩の谷口は、すでにバルセロナ五輪のマラソン代表に内定していた。森下は、谷口が優勝したのを見て、「自分も(東京国際で)勝てる」と思っていた。

「そう思えたのは、ずっと谷口さんと練習してきましたし、駅伝の練習では勝つこともあったからです。しかも、谷口さんは私のように目一杯追い込むようなタイプではない。マイペースですが、しっかりと東京の世陸で勝ったので、同じ練習をして、さらに自分はもっとやっていたので負けるわけがない。絶対に勝てると信じていました」

 実際、レース前日の記者会見では「(1988年ソウル五輪マラソン4位の)中山竹通(ダイエー)選手に勝てますか?」という質問に対して、森下は「中山さんが最初からスパートをして逃げたとしても、最後、胸の差で勝ちます」と自信に満ちた表情で答えた。

 レースの先頭争いは、体力も徐々に限界に近づいてくる35km過ぎで森下、中山、早田俊幸(鐘紡)の3人に絞られた。森下は、中山の戦い方は理解していたが、初マラソンの早田がどんなレースをするのかわからず、不気味に感じていた。どこでスパートをかけるのか、そのことばかり考えて走っていた。

 38.5km過ぎ、上り坂に差し掛かったところで中山が前に出た。このままレースが進めばラストスパートでは森下や早田にかなわないと考え、ロングスパートをかけたのだ。

「中山さんは本来ラストスパートをしないタイプですが、(このタイミングで)行かないと負けるから前に出たんだと思います。でも、中山さんは上りがそんなに得意じゃないんですよ。かなり脚を使った様子が見えたので、(結果、思ったほど引き離せず)不利な走りになってしまったと思います」

 早田が遅れはじめ、森下は鬼気迫る形相で中山とのデッドヒートを演じた。

「あれが自分のファイティングポーズなんです。人に弱い顔を見せたくない。完全にスイッチが入っているので、あの顔になった私は怖いですよ(笑)。余談ですが、そういう必死さってすごく大事だと思っていて、だから、うちのチーム(監督を務めるトヨタ自動車九州)で(順天堂大学時代に『山の神』と言われた)今井正人(現・順天堂大学コーチ)を採ったんです。彼も歯を食いしばって、必死の顔をして走りますから」

 ゴール地点の国立競技場に入る手前で中山が前に出て、森下と少し差が開いた。このままトラックまで並走していくのかと少し油断した隙を突かれた。それでも森下は追いすがり、今度は中山を抜き返した。

「国立競技場前の最後の坂で追いついて、トラックに入ったんです。自分では加速しているつもりなんですけど、脚に疲れがきていて思うように進まない。でも、中山さんも(38.5km過ぎの)上り坂からずっと引っ張ってくれていたので、かなり脚にきていたと思います。必死にもがいて走ったら中山さんが離れていってくれたのでよかったですけど、ラスト100mは本当にキツかったです」

 2時間10分19秒で優勝した森下は、谷口に続いて2人目となるバルセロナ五輪のマラソン代表の座を射止めた。

「2回目のマラソンで五輪のマラソン代表になれたのですが、今思うと宗さんたちの敷いいてくれたレールの上に乗り、ふたりが描いたシナリオどおりになったなと思いました」

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