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【レジェンドランナーの記憶】「こけちゃいました」で時の人となった谷口浩美、1991年東京世界陸上は「パーフェクトなマラソンだった」 (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【世界陸上で生きた「箱根6区のラスト3km」】

 本能や感覚で走るのではなく、データや選手の分析やメニューの組み立てなど、事前準備を重視し、それを経てのレースであり、結果だと捉えていた。そして、それが1991年の東京世界陸上で実を結ぶことになる。

「(1988年)ソウル五輪に私は行けなかったのですが、陸上関係者に『暑さに強い谷口がいたら面白かったんじゃないか』と言われたんです。東京世界陸上も暑さとの戦いになるので、その対策として日本陸連から指定されたレースが(8月開催の)北海道マラソンでした。

 レース当日の暑さはそれほどでもなかったものの、ここで優勝したことで、『谷口は暑さに強い』と思われたようです。本当は決して暑さに強いタイプじゃないのですが(笑)。でも、メディアの皆さんが『谷口は暑さに強い』と書いてくれるので、単純な僕は『自分は暑さに強いんだ』『3分間戦えるウルトラマンみたいに、マラソンの2時間20分だけは暑い中でも走れる』と思うようにしていました。根拠のない勝手な思い込みが自分の自信になっていましたね」

 正式に東京世界陸上のマラソン代表になると、初出場した別大マラソンから13回走ったレースの気象などのデータに加え、これまでの練習メニューをすべて書き出していった。そして、レースの100日前からの練習メニューを作り、いつも通り、それを地道にこなしていった。途中でうまくいかなくても、少しコンディションが落ちても、あとで必ず上がってくるから大丈夫だと過去のデータから理解し、焦ることはなかった。

「9月が本番だったのですが、4月にはレース展開などの台本を書き、この台本通りにどうやって世界選手権のレースを終わらせるのかを考えていました」

 1991年9月、東京世界陸上のマラソンは、気温30℃、湿度60%のなかスタート。参加60名中24名の選手がリタイヤする過酷なレースになった。メダルが期待された中山も途中棄権した。谷口は「自分はウルトラマン」と思い込んで走り、30kmの給水所でのスパートも実行した。周囲の選手が自分のボトルを取ることに注意を払っている隙に飛び出すことを、事前に決めていたのだ。

 5、6人の選手がついてきたが、ここで「箱根6区のラスト3kmの経験」が生きた。「いける」と気持ちを切り替え、力を振り絞って走った。国立競技場にトップで入ると、最後のストレートでガッツポーズを決め、金メダル(2時間1457秒)を獲得したのである。

「私のなかではすべて台本通り。パーフェクトなマラソンになりました」

 明確な結果を得たことで自信を深めた谷口は、1992年8月、国民の大きな期待を背負い、人生初のオリンピック、バルセロナ五輪の舞台に立つことになった。

(文中敬称略)

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谷口浩美(たにぐち・ひろみ)/1960年生まれ、宮崎県南郷町(現日南市)出身。小林高校では全国高校駅伝に3年連続出場し、2、3年時は同校の2連覇に貢献。日本体育大学では2年時から3年連続で箱根駅伝の6区を走り、いずれも区間賞を獲得(3、4年時は区間記録を更新)。旭化成に入社後は主にマラソンで活躍し、1991年の世界陸上東京大会で金メダルを獲得したほか、1992年バルセロナ、1996年アトランタと二度のオリンピックにも出場。1997年に現役を引退すると、実業団や大学での指導を経たのち、2020年3月まで地元の宮崎大学の特別教授を務める。マラソンの自己最高記録は2時間7分40秒(1988年北京国際)。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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