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【レジェンドランナーの記憶】「こけちゃいました」で時の人となった谷口浩美、1991年東京世界陸上は「パーフェクトなマラソンだった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【大学卒業後、本当は教員になりたかった】

 4年生で陸上選手として自信になるものを得て、普通なら実業団に入り、さらに上を目指していきたいと思うだろう。だが、谷口は競技を引退し、宮崎県に戻って教員になることを考えていた。実際、日体大の4年時に教育実習を受け、あとは教員試験に合格するだけだった。

 だが、宮崎県では2年前の国体開催に合わせて教員採用が増え、その反動で谷口の卒業年には採用枠がゼロに近く、不合格。路頭に迷うことを心配した高校の恩師が地元の旭化成に相談した結果、教員採用試験の再受験準備をしながら、2年間だけ在籍する約束で入社することになった。

「(旭化成に)入社しても教員になりたいと思っていました。走りながら勉強は続けていて、ちょうど2年目、(初マラソンの)別府大分毎日マラソンで優勝したんです(2時間1316秒)。それを置き土産にして退職し、教員になろうと思ったんですが、また不合格になってしまって(苦笑)。そうなると、旭化成に残ってマラソン選手としてやっていくしかないじゃないですか。恩師には特に何も言われなかったのですが、継続しか道がないので旭化成に残り、マラソンに挑戦することに決めたんです」

 教員になる夢は胸の奥に押し込んだが、マラソン自体には中学生の頃から憧れがあった。

「中学生の時、テレビで福岡国際マラソンを見たんです。給水のシーンで『マラソンの選手は、どうしてジュースを飲みながら走れて、横腹も痛くならないのかな』って不思議に思ったのです。うちはジュース1本を買うのも大変な貧乏な家だったので、ジュースを飲めて横腹も痛くなく走れるマラソンは、なんていいんだろうって(笑)。それで将来は、マラソンをやりたいと思ったんです」

 旭化成でマラソンを本格的にスタートさせた谷口だが、チームは中国駅伝(*1995年まで開催。現在の都道府県対抗男子駅伝の前身とされる大会)を重視しており、メンバーは日本を代表する選手ばかり。出走する7人のうち5人は宗茂、宗猛、佐藤市雄、弓削裕、児玉泰介で決まっていた。残り2枠を谷口と他の選手たちで競った。

「とにかく駅伝のメンバーに入りたいので、練習を全力でやり終えたあとも、寮まで走って帰っていたんです。それで疲れ果てて、寮の玄関でそのまま寝ていたこともありました。そのせいか、1年目からメンバーに入れて、駅伝を走ることができたんです。自分が弱いという意識が自分を強くしてくれたんだと思います」

 自分の弱さがモチベーションになり、誰よりも練習をこなした。その結果、1988年の北京国際マラソンでは2時間0740秒(自己最高記録)をマークし、世界歴代7位(当時)のタイムで2位に入った。翌1989年には東京国際マラソン、北海道マラソンで、1990年にはロッテルダムマラソンでいずれも優勝し、日本では瀬古利彦、宗茂、宗猛、中山竹通らに次ぐ選手としての地位を確立、「マラソンに強い男」として評価を高めた。

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