パリオリンピック男子110mハードル 5位入賞村竹ラシッドは道を切り拓いた泉谷駿介とさらに上へ (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【「楽しかったけど、悔しい」】

悔しさは残るも、メダルを狙える手応えを掴んだことも大きな収穫に photo by JMPA悔しさは残るも、メダルを狙える手応えを掴んだことも大きな収穫に photo by JMPAこの記事に関連する写真を見る その泉谷の思いも背負った村竹の決勝。

「1台目のハードルを当てたのがよくなかったけど、2台目と3台目で修正して立て直せたので、後半にいい流れで入っていけると思った」と村竹自身が振り返るように、3台目から5台目までは3番手に上がり、ひとり抜け出したグラント・ホロウェイ(アメリカ)を追いかける集団のなかで競り合った。

 だが、「5台目、6台目くらいでリード脚が勢いに対応できずハードルに当たってしまい、バランスを崩しかけてからグダグダになってしまった」と、13秒09だったダニエル・ロベルツ(アメリカ)とラシード・ブロードベル(ジャマイカ)から遅れ、最後は追い込んで来たエンリケ・リョピス(スペイン)に交わされ、13秒21で5位という結果になった。

 男子トラックの短距離種目における5位は、1932年ロサンゼルス五輪100mの吉岡隆徳氏の6位を上回る日本の五輪歴代最高順位である。だが、村竹は、素直な思いを口にする。

「5位は、いいのか悪いのかわからない中途半端な順位。しかもメダル争いに加われていたかもしれないので、かなり悔しさが残ります。オリンピックの決勝に進めたというのは大きな成果だしうれしいですが、ゴールしてみたら楽しかったという思いと、メダルが獲れなかった悔しさがあった。まだまだ強くなっていかなければという思いはありました」

 村竹は、東京五輪選考会の2021年の日本選手権準決勝で五輪参加標準記録突破の13秒28を出したが、決勝はフライング失格。挫折を味わった。さらに2022年オレゴン世界選手権には出場したものの予選敗退、2023年は肉離れで日本選手権に出場できなかった。だが、昨年7月の復帰レースで自己新の13秒18を出してパリ五輪参加標準記録を突破すると、9月の日本インカレでは泉谷の日本記録に並ぶ13秒04で優勝。そして代表を決めた今年の日本選手権の13秒07を筆頭に、4回もパリ五輪参加標準記録突破と安定した力を見せていた。

「東京五輪のあとから、ずっと待ち望んでいた場所だから長かったですね。その舞台を目標にして3年間ずっとトレーニングをしてきて、決勝進出というのは課題で、目標ではなくなっていた。メダルは獲れなかったですが、今回でメダルを獲れるかもしれないという目標も現実味を帯びたかなと思うので、この3年間は無駄ではなかったと思う。ここで走ったことで、もっともっと強くなれると思いました」

 決勝という舞台を考えること、スタートラインに立つこと、そして実際にレースを走ること、ゴールをすること。そのすべてを含めてこれまで一番緊張したレースであると同時に、「一番楽しいレースだった」とも言う村竹。それを実際に体験できたのは、昨年の世界選手間で泉谷が決勝に進み、「メダル獲得も可能だ」という走りを見せてくれたからだ。

「この種目は体格がすべてではない、自分たちの体格でも世界で勝負ができるし、メダル獲得も可能だと思います。それを証明してくれた泉谷さんがいなかったら、今、僕はこの場に立っていなかったと思います」

 歴史を塗り替えたオリンピック5位という村竹の結果は、先輩の泉谷とふたりでさらなる高みを目指し、110mハードルを日本のお家芸にまでできる可能性を示すものでもあった。

東京五輪前から男子110mハードルを牽引してきた泉谷 photo by JMPA東京五輪前から男子110mハードルを牽引してきた泉谷 photo by JMPAこの記事に関連する写真を見る

プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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