下田裕太「もう走れません。今年で陸上やめます」...ドン底状態からMGC出場権を勝ち取るまでに奮い立たせた恩師の言葉 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 松尾/アフロスポーツ

【僕にはマラソンの才能がないのかもしれない】

 本格的な練習は箱根駅伝が終わって4日後、富津での合宿から始まった。

 原監督は「箱根は23キロだが、アップダウンがあるので、それを平地にしたら30キロまでキロ3分で行けるベースがある。残り10キロをどう伸ばすかだけど、箱根終わりで始めれば十分間に合う」と語り、下田たちは熱心に練習に取り組んだ。

 当時は、学生がマラソンを走るのが珍しかった。大胆なチャレンジは原監督らしいが、下田たちには「スタートラインに立った時点で、お前らは目標クリアだから華々しく散ってもタイムを出してもどちらでもいいぞ」と声をかけられたという。

「僕もいきなりマラソンで結果を出せると思っていなかったんで、どうにでもなれって感じでしたね。結果よりも陸上界を良くしたい、マラソン界を盛り上げたいという原監督の考えに自分も賛同し、そのためにという気持ちで走りました」

 下田は、2時間1134秒で男子マラソンジュニア(10代)日本最高記録を出した。この大会はリオ五輪の選考レースにもなっていた。原監督がリオ五輪のマラソン代表の候補に将来性などを考慮して下田を推したが、「自己ベストが2時間10分を切っていない選手が(五輪に)出るなんてありえない」など、否定的な意見が噴出した。下田はその喧騒に巻き込まれ、最終的に代表選考から漏れたが、マラソンで結果を出したことで、将来の道筋が見えたことが最大の収穫になった。

「この時、マラソンで結果を出していなかったら今の自分はいなかったですね。結果を出したことで自分はマラソンを走る力があるんだと思えて今もマラソンを走っています」

 GMOに入社して、マラソン練習をこなしていったが、1年目は結果が出なかった。188月の北海道マラソンは2時間2502秒で44位、翌20193月の東京マラソンは2時間1753秒で32位だった。同年4月のハンブルクマラソンは一色のサポートと海外経験を積むために出場したが、2時間1342秒で19位に終わった。

「北海道が全然ダメで、東京は雨と低気温でしくじって、ハンブルクも雨だったんですが、全然ダメで‥‥。MGCに出るためにはハンブルクで8分台が必要だったんですが、当時の僕は8分で走れるなんて到底考えられなかった。だから、MGCは意識していなかったです。でも、マラソンを3本走って、雨などコンディションの問題があったにせよ、あまりにも走れなかった。僕はマラソンの才能がないかもしれないと考えたりもしました」

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