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箱根駅伝の常連校へ。元主将・土方英和が明かす、当時の國學院大「入部時はだらしない人もいたんです」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

1年生の時から駅伝メンバーに

 地道に距離を重ね、走力をつけることで土方は1年目から駅伝に絡むようになる。箱根駅伝の前哨戦ともいえる全日本大学駅伝で駅伝デビューを果たした。

「全日本は走りやすい5区を任せてもらったのですが、4位になり、自信になりました。箱根は、もう自分は主力だと思っていたので、出たいというよりも走らなきゃいけないと思っていました。実際、すごく調子がよく、このままいけば区間上位の走りができると思っていました」

 土方にはそう思えるだけの理由があった。箱根予選会では細谷、蜂須賀に次いでチーム内3位、全日本は5区4位、その後の記録会も10㎞を29分13秒で走ることができて、いい流れができていたのだ。だが、12月に入り、メンバー発表がされる前の合宿中、アクシデントが起きた。

「捻挫をしたんですが、そのことは前田監督に言いませんでした。でも、『走りのバランスが崩れている』って言われたので、その時、初めて『痛くないんですけど、足をちょっとひねってしまって』と言ったんです。そうしたらめちゃくちゃ怒られました。けっこう重症だったんですけど、痛くないってずっと言い張っていましたね。最後、走れることは走れたんですけど、ケガする前の走りには戻せなくて......1回のひねりですべてがパーになってしまいました」

 土方は3区に出走したが区間18位に終わった。チームは、総合16位になり、シード権を獲得することができなかった。この苦い経験を糧にして、土方は翌年の箱根で4区3位の好走を見せた。そして3年時には主将となり、エース区間の2区を任された。

「3年時の箱根は、浦野が山の5区と決まっていたので、長い区間を走れる僕は必然的に2区になりました。この時、2区7位という結果を残すことができたのは、すごく自信になりましたし、前田監督の信頼も勝ちとることができたのかなと思います」

 3年時から4年にかけては、土方が一番成長したシーズンだった。

「箱根前の甲佐10マイルで46分50秒とそれなりに走れて、箱根2区を走って、学生ハーフで4位になって、大きな大会で結果を残すことで成長し、自信になりました。4年の時の関東インカレ2部のハーフは全然調子がよくなかったんですけど、メンバー的に勝たないといけなかった。一番の敵は山下(一貴・駒澤大・三菱重工)で彼に勝てればいいかなと思っていたら本当にふたりで優勝を争うことになって。最後はプライドじゃないですけど、絶対に勝たないといけないと思い、勝てたことでさらに自信が膨らみました」

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