日本男子マラソンの礎を築いた男。高岡寿成が1万mに固執したわけ (2ページ目)
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「アトランタ五輪当時、怖いなと思ったのは、日本のマラソンが(世界に)遅れるのではないかということでした。当時は世界記録こそ2時間06分50秒で、僕らが現役時代に目指していたレベルで止まっていたのですが、バルセロナ五輪以降はヨーロッパ勢の選手などがマラソンで結果を出すようになっていました。彼らは、トラックでも五輪に出場して決勝に残るほどのレベルだったんです。
彼らはアフリカ人選手に勝てなくなった状況の中で、どういう道を選べばいいか、と考えてマラソンに行ったんです。僕らの時代でも、瀬古さんや宗兄弟、中山竹通など、全員がヨーロッパの大会の1万mで世界トップと先頭争いをしていました。そういったことを考えると、これからはトラックで世界と戦ったうえでマラソンに行くルートが主流になる。だからこそ、トラックで戦えるようになってからマラソンへ行くのが使命だ、と高岡に話しました」
さらに伊藤は、シドニー五輪翌年の01年世界選手権から、1万mの予選がなくなって決勝一発勝負になることも考慮し、シドニー五輪は日本人が入賞するラストチャンスになる、とも考えていたという。
高岡は、将来のマラソンも視野に入れて徐々に走る距離を増やしながら、トラックに集中。97年以降は毎年、6月から2~3カ月間の単独海外遠征も実施した。
「当時は1万mで記録を作りたい、ということだけを考えていました。長期遠征も、向こうの選手の生活パターンや競技への意識を学ぶことが、自分の競技に生きてくると思っていました」
1万mの世界記録は、93年以降に急速な伸びを示していた。同年7月には26分台に入ると、97年には26分30秒を切った。そうしたなかで、高岡自身の1万mベストは96年の27分49秒89。それでもシドニー五輪前の5月末から8月上旬までヨーロッパを転戦し、5000mでは13分15秒34の自己のセカンドベストを出して調子を上げていた。
そして迎えたシドニー五輪。9月22日の1万m予選では27分59秒95と余裕を持って走り、着順で決勝進出を果たした。
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