ドラマ『陸王』を地で行く
「足袋職人のシューズ」が本当にあった (4ページ目)
■姫路からきた足袋職人と、韋駄天の師範学生■
1903年(明治36年)、兵庫県の姫路から上京した黒坂辛作は、明治政府が近代国家建設に向けて教育に力を注ぎ、多くの官立学校や私立学校が創立されたこの大塚の一角に、小さな足袋店を構える。まだ21歳のときだった。
辛作は遠くふるさとの姫路、つまり播磨への郷愁の想いから、屋号をハリマヤにしたのだった。やがて店の前に上野広小路へと通ずる東京市電の「大塚仲町」停留所ができたこともあり、商売は大いに繁盛した。
辛作は座敷で使う和装の足袋を製造していたが、店の裏手には東京高等師範学校があり、春と秋に行なわれる校内長距離走の時期ともなると、足袋を買い求める学生たちで賑わった。当時は運動用の外履きがなく、足袋を代用したのだった。東京高等師範学校(東京高師)は官立の教員養成機関で、のちの東京教育大学、現在の筑波大学の前身である。
18歳の金栗四三が熊本から上京し、東京高師に入学したのは1910年(明治43年)のことだった。金栗は恒例行事の校内長距離走において持ち前の持久力で好成績を挙げ、翌年、ストックホルムオリンピックのマラソン代表選考会に出場することになった。
近代国家を目指す日本が、国際的なスポーツイベントに初めて参加する。その日本代表を決める選考会は25マイル走、約40kmのレースだ。当時で言う十里の距離を、全国から選ばれた12名の選手で競った。
11月の冷たい雨が降りしきるなか、金栗はハリマヤで買った黒足袋を履いて、さっそうと走り出す。小石まじりの道を駈けるとすぐに足袋の底がはがれ、足にまとわりついて走りづらい。やむなく金栗は足袋を脱ぎ捨てて裸足になった。道はぬかるみ、滑って思うように足を前に運ぶことができなかったが、それは金栗ばかりではなかった。選手は皆、足先の冷えと痛みに耐え、踵(かかと)に切り傷を負いながら走っていたのだ。
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