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はじめて1年目で日本代表に。パラテコンドー田中光哉の夢は、サッカーの指導者からメダリストへと変わった (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by Kyodo News

 幼稚園の頃、腕に障がいがありながらも工夫して剣道を始めた。

 小4の時には02年ワールドカップ日韓大会が開催され、それをテレビで見て、すぐにサッカーをやろうと思って始めた。

「小野伸二選手が好きで、もう毎日サッカー漬けでした」

 ポジションはボランチやトップ下を任され、健常者と一緒にプレーした。小中まではそれほど周囲の選手と違和感なくプレーができたが、高校生になると周りも体が大きくなり、障がいがあることでのハンデを徐々に感じるようになった。

「高校生ぐらいになると上半身のフィジカルの強さとか、違いが出てきました。でも、そこでダメではなく、どうやって負けないようにプレーするのか。ポジショニングや(体を)ぶつけられないことを考えてプレーするようになりました」

 サッカーを続けていくうちに、指導者になりたいという気持ちが強くなった。高校サッカーの監督は、障がい者でも十分にやっていける。たとえば羽中田晶さんは車いすだが、08年から09年にかけてカマタマーレ讃岐で監督をしている。田中はその夢を実現しようと沖縄の大学に進学するが、そこでのいろんな経験で考えが徐々に変わっていった。

「大学でいろんな人に出会ったり、留学でオーストラリアにいったのが大きいですね。英語教員になり、高校サッカーの指導者になろうと思って行ったのですが、現地には障がい者の人もいて、その人たちに対する目線がすごく優しいんですよ。障がい者に対する見方や考えを学ぶうちに、自分自身の障がいについて深く考えるようになりました。大学を卒業する時には障がい者である自分がサッカーだけではなく、もっといろんなスポーツに関われる道があるのかなと思い、監督の道は一度、諦めることにしました」

 大学卒業後、東京都障害者スポーツ協会に入社した。

 そこで障がい者のスポーツの指導、イベントを手伝ったり、東京パラリンピックに向けてパラアスリートの発掘事業にも参画した。そのなかで、田中は自分の気持ちが東京パラリンピックに向いていくのを感じた。

「自分もやれることがあるんじゃないかって思うようになったんです。じゃ何をやろうかと考えた時、本当はパラスポーツの中でもサッカーをやりたかったんです。それでアンプティサッカーを始めようとしたのですが、上肢障がいだとGKになるんですよ。他に陸上、水泳とか、上肢障がいの選手ができる競技があるんですけど、(上位の)タイムを見てしまうと、 あと4年でこのタイムは難しいだろうと思ったんです。そんな時、東京パラリンピックからテコンドーが新たに競技種目になったと聞いて。日本ではパラテコンドーの競技人口も少ないですし、腕の障がいのある人を探しているというのも聞いたので、だったらやってみようと思って始めました」

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