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パラ競泳・一ノ瀬メイは「差別」の根源を探求。廃絶を願い発信力も強化 (2ページ目)

  • 内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki
  • photo by AFLO

『パラリンピック』という言葉や存在と出会ったのも、このプール。当時、パラリンピック競泳日本代表監督を務めていた猪飼聡氏が、障がい者スポーツセンターのスタッフとして働いていたのである。

「パラリンピックっていう大会があって、そこではメイちゃんと同じような人たちが出ているんだよ」

 猪飼氏の話を聞き、「かっこええなー、出てみたいな」と、少女は無垢な憧憬を募らせた。

 その夢の実現に向け、母娘は地元のスイミングスクールに出向いたが、彼女を待ち受けていたのは「入会拒否」という現実。理由は、障がいがあることだった。『差別』という概念を可視的に認識した最初の体験が、おそらくはこの時だったのだろう。

 もしかしたら、ここで水泳の道を閉ざされたかもしれないひとりの少女の命運は、母親の強い意思によって切り開かれる。

「私が生まれてから、母はずっと、障害学を勉強したいと思っていたんです。障害学で有名なのがイギリスのリーズ大学で、母がそこに留学することになったんです。父がイギリス人なので、父の実家で母と一緒に1年間生活しました」

 母親が本格的に障害学を学ぶ一方で、娘も、その後の人生の指針となる衝撃的な体験をする。それは、地元のスイミングスクールに行った時のこと。

「君は、何秒で泳げるの?」

 イギリスのスクールでは、それが最初に聞かれたことだった。

 障がいの有無などではなく、純粋にタイムのみで、入るべきクラスが決められる。そして実際に大会に行けば、自分と同じような子どもたちに多く出会った。

「ずっと日本にいたら、心が折れたり、どこに向かえばいいかわらなかったかもしれない。でもイギリスに行った時に、理想を自分の目で見たことで、『ここを目指せばいいんだ』って思えた。だから日本に帰った時も、目は遠くに向けつつ、足は地につけて歩んでこられたのかなって思います」

 遠くに向けた目で、差別なき理想の世界を見つめつつ、地につけた足で日本記録を打ち出しながら、彼女は発信力も強めていった。

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