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【平成の名力士列伝:旭富士】平成初の横綱は天才的な相撲センスも5場所連続"準優勝"で昇進を待たされた (2ページ目)

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

【昇進見送り、すい臓炎の戦いを経て横綱へ】

 昭和63(1988)年9月場所から12勝(次点)、12勝(次点)、14勝(優勝同点)、13勝(次点)、13勝(優勝同点)と5場所連続で「優勝に準ずる成績」であったにもかかわらず、当時の協会から横綱審議委員会への諮問すらなかった。ひと昔前であれば、2度ほど横綱に昇進してもおかしくない成績だったにもかかわらず、だ。ある横審委員からは「決定戦の負け方の印象がよくない」という発言まで飛び出す始末で、もはや"難癖"レベルである。

 不当とも言える昇進見送りに世間は旭富士に同情的であったが、当人の捉え方は違っていた。

「自分のなかでは何かが足りないと思っていた。負けた印象が悪いと言われれば、そう言われないように頑張ろうと。そっちのほうに意識がいってましたね。相撲に関しては結構、素直だったんで(笑)」

 毎日500回踏んでいた四股は、綱取りが見送られるたびに100回ずつ増えていき、最終的には1000回に達した。

「嘘だろ!? と思いながらも、踏んでましたね(笑)。あきらめることはなかった」とのちに語っている。綱を張る選ばれし人間は、常人とは発想、思考が根本から違うのだ。

 5場所連続"準優勝"直後の平成元(1989)年7月場所は、大関昇進以降、初めて勝ち星が2ケタを割って8勝7敗に終わった。すい臓炎を再発させ、この場所から約1年は勝ち越すのがやっとの状態だったが、平成2(1990)年5月場所から連覇を達成し、7月場所後、文句なしで平成初の横綱に推挙された。
 
 平成3(1991)年5月場所は千秋楽で大関・小錦に本割、決定戦と連勝し、逆転で横綱初Ⅴを果たし、綱の意地を見せたが、その後はまたもすい臓炎に苦しめられた。

「体調を戻すのに大関の時は1年くらいかかった。調子が悪くても10番、11番勝つ自信はあったけど、横綱は優勝争いに加わらなくてはならない。そういう責任を全うできないなら、辞めるしかない。また自分の体をいじめながらやっていくのも、ちょっときついとも思ったんで」

 横綱は在位9場所の"短命"に終わったが「決断にまったく悔いはありません」と平成4(1992)年1月場所中に、潔く土俵を去った。

 引退後は日馬富士、照ノ富士のふたりの横綱をはじめ、関脇・安美錦、宝富士ら、多くの関取を育てた名伯楽でもある。

【Profile】旭富士正也(あさひふじ・せいや)/昭和35(1960)年7月6日生まれ、青森県つがる市出身/本名:杉野森正也/しこ名履歴:杉野森→旭富士/所属:大島部屋/初土俵:昭和56(1981)年1月場所/引退場所:平成4(1992)年1月場所/最高位:横綱(第63代)

著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

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