為末大が考えるこれからのオリンピックの在り方 新しいインターネット型の大会を再開発していく可能性 (2ページ目)

  • 西村 章●取材・構成 text by Nishimura Akira

【オリンピズムはその時代の最先端の象徴】

――先ほどの話にもありましたが、近年はスケートボードなどアーバンスポーツがオリンピック種目に入ってきています。アーバンスポーツはオリンピックのような中央集権的な考え方と対極にある、いわばもっとアナーキーなスポーツだと思うのですが、そのような競技がオリンピック種目に入ることを、為末さんはどんなふうに見ていますか?

為末:すごくいいことだと思います。我々のようなオリンピアンがオリンピックにとって大切だと考える要素のひとつが公平性です。同じ条件かどうかをすごく気にするんです。陸上競技だと、風の強さが秒速2mを超えると標準記録ではなくなるのですが、たとえばサーフィンはいつも同じ波で競うわけではないですよね。そのように公平ではない条件でも競い合うスポーツが入ってくると、価値観が少しずつ変わっていくと思うんです。それがオリンピックをよい方向に変えてくれるのではないかと思います。

――つまり、本来のオリンピズムの思想に近づいていく、ということでしょうか。

為末:当初のオリンピズムとは何だったのか、オリンピアンである私にもよくわかっていないのですが、古代オリンピックに関するものを調べてみると、おそらく現代の祭りのようなものに近かったのではないか、とも思います。

 アーバンスポーツがオリンピックに入ってくることで、そういった祝祭的な空気がもう少し強くなる気がするんですよ。ルールが厳密で公平性も担保されて勝利条件が明確になると、「機械」になれる人ほど強くなる。寸分違わず毎回同じプレーをできるほうが強くなるからです。今はその傾向が少し行き過ぎている気がするんですよね。

――もう少し、緩やかなほうが望ましい?

為末:そうですね。機械になる、ということは答え合わせができてしまうわけですから、小学校時代にはこんな条件で育成して高校で一番いい状態になって......、とシステムに組み込んで鍛えていく発想が出来上がる。それが先ほど言った勝利至上主義にもつながっていくわけです。メダルを獲るためには4歳までに競技を始めましょう、というような効率性至上主義ばかりになると、エリートコースを歩んだ人しかオリンピアンになれない世界になって、たとえばどこかの田舎から出てきた少年がいきなりオリンピックに行く、という余地がなくなってしまうので、それはあまりいいことではないと思います。

――それでは夢がなくなる、と。

為末:そうなんです。インドネシアの田舎で裸足で走っていた少年が速くなって、アジア大会で10秒0台でメダルを獲ったラル・ムハマンド・ゾーリ選手のような、ああいう物語が世界中のどこでも起きる可能性があるのがすばらしいと思うので、「ここに生まれない限りは無理」「こういう経験を人生の早い段階でしていなければトップを目指せない」というのはつまらないと思いますね。

――1都市開催は難しくなるだろう、という話がありましたが、4年に1度の開催間隔は今後も続いていくと思いますか?

為末:続くでしょうね。要するに、何が崩れるとオリンピックではなくなるのかという問いだと思うのですが、4年に1度であることと世界中からの参加という、このふたつの要素が崩れたらオリンピックではなくなる気がします。

――IT企業のようなプラットフォーマーが世界的な放送・配信を担うようになり、1都市ではなく複数都市で行なわれるようになるとすれば、今までの近代オリンピックとは似て非なる大会になる可能性が出てきます。従来のようなオリンピックを目指してきた人々やIOCは、それでもいいと考えるでしょうか。

為末:とはいえ、人間の記憶は強力なので、あの5つの輪と「オリンピック」という名前がもたらすイメージは普遍的だと思います。たとえば世界的な数学大会に『国際数学オリンピック』という名前をつけてしまうくらいなので、世界的コンペティションの象徴としてオリンピックという名前やフォーマットは崩れない気がしますね。

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