「平昌五輪後は人目が気になって外に出られなくなった」 小平奈緒が注目される生きづらさのなかで見つけた人とのつながり 今後の新たな挑戦 (4ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

【これから取り組んでいきたいこと】

 引退後も相澤病院に所属しながら、母校の信州大学では特任教授として講座も担当することになった。これからは、スポーツに関わらず、人として生きる豊かさを追求することに関わっていきたいとも言う。

「学び場みたいなものを作りたいですね。それはスポーツに限らずアートでもいいし。おかげさまでいろんな人脈を持つことができたので、それこそ町の本屋さんでトークショーのイベントをやったり。それも、有名な人を招いてトークをするよりは、地域の人たちと対話するのを聞いてもらうというような空間を作ってもいいのかなと。ひとつの空間から町が作られていくというイメージを持っています。大きなところから統制するのではなく、小さな空間から町の人の豊かさが派生していくようなイメージを持っていて、そこでまたそういう活動を応援してくれるような人たちとつながれるといいかなと思っている段階です。

 人間と人間が関わることでしか生まれないエネルギーみたいなものもあると思うので、テレビに出るとか、何かの役職に就くというのではなく、フィールドで動き回りたいというのが自分の将来の夢でもあるし。タイムリーな出会いが人の人生を変えたり、いい方向に動くこともあると思うので、私が何かを伝えたいというより、人の中で生きていきたいなと思っています」

 スケーター・小平奈緒にはひと区切りをつけたが、そこで得た小平奈緒の存在価値を生かしていきたいとも話す。

「人と人をつなぐ接着剤のようなイメージですね。奈緒という名前には大きな木の下に人を集めるという意味があるらしくて、しかも"奈"というのは唐梨という意味でリンゴらしいんです。それに"緒"は鼻緒の緒だから、つなぐ役割があるのかなと思って。自分がこうなって欲しいというよりは、人にとってそれぞれがいいと思う未来に進めるように動かせる存在であればいいなと思います」

 小平が信州大へ進んだのは、結城匡啓コーチに指導をしてもらいたかったことのほかに、教員になりたいという希望があったからだ。学生時代はそれをいつも口にしていた。だが今は、「職業を仕事にするのではなく、生き方を仕事にしていくというのが一番しっくりくるなと思っているんです。そうしたらどんなフィールドでも迷うことはないなと思って。だから大学でも、大学の先生という仕事で働くのではなく、大学というフィールドで生き方を表現していくというところに、今は考え方をシフトしています」と変化している。

 スピードスケートを突き詰めて得たものを、次のステージでまた自分らしい花として咲かせたい。小平のそんな挑戦が、ここから始まる。

Profile
小平奈緒(こだいら なお)
1986年5月26日生まれ。長野県出身。
3歳からスケートを始め、中学2年で全日本ジュニアの500mで優勝すると、高校でも500m、1000mでインターハイ2冠達成など力をつけていった。信州大学進学以降は、結城匡啓コーチに師事し、バンクーバー五輪ではチームパシュートで銀メダル、平昌五輪では、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得し、日本だけに留まらず女子スピードスケート界を代表する選手となった。北京五輪後の2022年10月の引退レースとなった全日本の500mでは、見事優勝を飾っている。

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