歴代最高の卒業生たちが競輪デビュー。2度の受験失敗、世界大会2位、シュワちゃん好きと逸話満載の3人が時代を創る (2ページ目)
名門チームのキャプテンを務めた過去を持つ、近谷涼世界2位の実力者
近谷涼
自転車競技界で知る人ぞ知る存在、近谷涼。名門「チーム ブリヂストン サイクルリング」でキャプテンを務め、2017-18 UCIトラックワールドカップ4km団体追い抜きで2位となるなど、ワールドクラスの実力を持つ。
その近谷が121期生として今年の3月、日本競輪選手養成所を卒業した。現在30歳となった彼が今なぜ競輪選手になったのだろうか。
幼いころから「自転車が大好きで、時間があれば、家の周りとか公園とかに行って乗っていた」という近谷。中学生の時には野球部で活躍しながらも、月2回、富山競輪場で競輪選手の指導を受けながらバンクを走り、市民体育大会にも出場していた。
そして高校からは念願の自転車競技部に入る。入部の際には、顧問の先生に「卒業したら競輪のプロ選手になりたいので指導をお願いします」と宣言していた。当時、掲げた目標は、「全国1位になることと、日の丸を背負って戦うこと」。その目標をかなえるべく、近谷は必死に努力を重ね、全国大会で好成績を残すようになる。
しかしそのどちらも目標を達成することはできなかった。高校卒業時、競輪学校の願書も手にしていたが、「ここでプロに行ったら、後悔するなと思ったし、年齢制限もなかったので、大学に進学して競技を続けることにした」という。
そして自転車競技に没頭していた大学4年時、東京オリンピックの開催が決まる。競輪選手になることを夢見ていた近谷だが、「一生に一度の機会だし、こんな機会はもうない」と思い、競輪ではなく競技を続ける道を選択する。
『納得いくまでやり抜く』がキャッチフレーズだという近谷は、東京オリンピック出場に焦点を当て、自転車競技に全身全霊を注ぎ込んだ。自分自身を徹底的に追い込みレベルアップを図ったことで、世界大会2位になるなど、数々の実績を残した。
しかし結局、東京五輪への切符を手にすることはできなかった。近谷は、夢破れ、大きな失望を味わったが、もともと競技は東京までと決めていたこともあり、幼い頃からの夢をかなえるべく、養成所に入る決断を下す。
競輪選手の夢を実現した近谷。息の長い選手を目指す「パリオリンピックはもう目指しません。僕は不器用でひとつのことに集中したいという思いがありますし、純粋に競輪をたくさん走りたいです」
競輪選手としての目標は、「まずはS級に上がること」と話す近谷。そして「40代、50代になっても走れるような選手になりたい」と競輪選手として生き続けることを誓う。
ようやく手にした競輪選手への夢。ルーキーシリーズは長い旅路の第一歩となる。
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