旭天鵬が母国で批判も帰化申請。モンゴル人初の部屋付き親方になった (2ページ目)

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

 この時、僕は29歳でしたけれど、今思えば、もっとガツガツ稽古して本気で大関を狙えばよかったなぁ......。自分で自分を「オヤジ」だと認めてしまえば、それでおしまい。もちろん大関の座を諦めてはいなかったんですが、昇進は幻に終わってしまいました。

「将来は日本で暮らしたいなぁ」と思い始めたのは、30歳になった頃からです。

 力士が引退して、親方として相撲協会に残る場合、日本国籍が必要です。引退したら、親方になる......というのは、僕の漠然とした夢でもありました。そこで、同期生の旭天山と一緒に帰化申請をすることにしたのです。

 とはいえ、それは簡単なことではなかった。申請したあとには、その人物の評判、付き合いのある友人、知人、収入面などの細かい調査があって、それをクリアしなければならない。審査をパスするまで、実に1年以上がかかりました。モンゴル人の帰化の前例があまりなかったことも、時間がかかった要因だったそうです。

 こうして2005年6月、僕は日本国籍を取得しました。モンゴル人のニャムジャウィーン・ツェヴェグニャムから、日本人の太田勝へ。苗字は、大島親方の本名「太田武雄」からいただいたもので、旭天山は「佐野武」になりました。

 15年近く日本で生活してきた僕は、治安、気候、食べ物、医療の面も含めて、とても過ごしやすい国だと思っていました。だから僕自身、日本人になることへの抵抗はありませんでした。

 幸いモンゴルの両親も「自分の人生なのだから、自分で決めなさい」と言ってくれて、僕の意志を尊重してくれました。

 けれども、モンゴル国内では、「旭天鵬は母国を捨てた男だ」「モンゴル人として情けない。誇りはないのか」などという批判、中傷するムードが流れました。

 両親は、こうした心ない言葉に相当つらい思いをしていたようですが、反論などはせず、じっと耐えてくれたことについては、今も申し訳ない気持ちでいっぱいです。

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