旭天鵬には謎だった日本で角界入り「サムライや忍者がいると思った」 (3ページ目)

  • 武田葉月●取材・構成 text&photo by Takeda Hazuki

 民主化されて2年弱。それまでも、その頃も、モンゴルに「日本」の情報はほとんど入ってきていませんでした。ましてや「力士」とは何者なのか? 理解できるのは、ほんのひと握りの人だったと思います。

 ところがある日、父親が「おまえ、相撲の力士に応募してみたらどうだい?」と言ってきたんです。

 僕は正直、「イヤだなぁ~」と思ったけれど、父親の意見には逆らえない。当時のモンゴルは、お父さんの力がとても強かったんです。

 力士志望者は、ウランバートルでの相撲大会で、優秀な成績を収めた者から選ばれるということでした。僕は「どっちにせよ、自分が選ばれることはないだろう」と思っていたので(笑)、しぶしぶ大会に参加したんです。

 亡き父が僕に力士への道を勧めたのは、息子にこれからの生き方を教えたかったからじゃないかと、今は思います。

 父親は、社会主義の中で生きてきた人間。これからは世の中がどんどん変化して、職業の選択肢も増えてくる。相撲へのチャレンジが生き方を考えるひとつのキッカケになれば......と考えていたのでしょう。

 最初の相撲大会には、100人以上の少年が集まりました。その後、翌年2月にもう一度招集がかかって会場に行くと、80人くらいの少年が集まっていて、その中から優秀な成績を収めた少年6人が、日本に行くということでした。

 大会で準優勝したのは、旭鷲山。僕は、優勝した旭鷹に1回戦で負けたのですが、どういうわけか「もう一度、相撲を取ってみなさい」とチャンスをもらい、旭嵐山(のち旭天山)に勝ち、日本行きの6人に選ばれたのです。

 当時から闘志むき出しで、やる気満々の旭鷲山は、念願の日本行きにはしゃいでいましたが、相撲に興味のない僕は複雑な気持ちでした。そして、その1週間後にはモンゴルから日本に旅立ったのです。

角界入りした経緯について語る友綱親方角界入りした経緯について語る友綱親方 新幹線に乗って大島部屋の大阪宿舎に着き、相撲の稽古が始まりました。素っ裸になって、まるでホースのような黒いまわしを初めて付けました。ガサガサしていて、足の付け根の部分が擦り切れてしまいそうで、付け心地は最悪でしたよ(笑)。まわしを巻いて、四股、テッポウなどの相撲の基礎を教わりました。

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