「若い衆の頃は地獄でした...」琴欧洲はなぜスピード出世できたのか? (2ページ目)
これが、プロスポーツなのか?
私には、疑問に感じることが多かったです。
というのも、ブルガリア時代、レスリングの代表チームの合宿に行った時は、ドクター2人、トレーナー3人、栄養士といった人たちがチームに帯同して、滞在先はホテル。サプリメントなどもすべてそろえてもらって、練習内容はコーチが決めたものを実践。それで、選手は、試合で結果を出す。
アマチュアのレスリングでもこうなのだから、プロの世界はベストな環境の中で、徹底した管理をしてくれるものだと思っていたんです。
ところが、幕下以下の「若い衆」と呼ばれる力士でいる限りは、自分の時間が持てず、兄弟子にこき使われ、給料ももらえない生活が続く。
そんな環境、いつまでもガマンできるわけがないじゃない? だから、1日でも早く関取になって、この環境から抜け出さなければいけない! と思ったんです。
それには、常に目標を持って、その目標に向けて、一生懸命やること――。
相撲部屋の生活は、昼のちゃんこが終わったら、昼寝の時間です。そして、夕方4時から5時まで掃除して、5時から6時の夕飯までの1時間、自由な時間があるんです。
その自由時間、他の力士たちは鼻ほじったり、マンガ読んだりして、ボケーッとしているんですが(笑)、私は筋トレの時間に充てていました。私は他の力士(だいたい15歳で入門)よりも4年遅く入門しているから、早く追いついて追い越したいという気持ちが強かったんです。
角界入りした当時の鳴戸親方(元大関・琴欧洲)photo by Kyodo News そうして2003年の初場所(1月場所)、初めて番付についた序ノ口の土俵で7戦全勝で優勝。
ところが、2月の稽古で右ヒザを亜脱臼してしまい、3月の春場所(3月場所)が始まる直前まで、ギプスをして松葉杖をついているという状況でした。
当然、親方からは、「カロヤン(本名)、休場しろ!」と言われたんですが、休場してしまったら、序ノ口に落ちてしまうから、私は強硬出場することにしました。
というのも、当時の部屋のルールで、携帯電話、自転車、パソコンを持つことができるのは、三段目以上となっていたから。インターネットがやりたかったし、とにかく早く三段目に上がりたい! これしかなかったんですよ。
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