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1964東京五輪出場選手、チャスラフスカとオシムの共通点 (2ページ目)

  • 五十嵐和博●撮影 photo by Igarashi Kazuhiro

木村 ベラは68年にチェコスロバキアで起きた民主化の動き、いわゆる「プラハの春」に対してソ連が侵攻してきたことに、ノーと言い続けた。オシムのユーゴ、特にボスニア共和国の場合はもっと後になりますが、1991年後半くらいから始まった、セルビア人、クロアチア人、ムスリムといった民族主義による国家分断に対して、どこにも属そうとしなかった。最後まで意思を通して、ついには代表監督を辞任しました。2人とも、一歩間違うと命が危なかった。

 チェコスロバキアのフサーク政権時代(1969~1989年)というのは暗殺もあって、実際、ベラも弟さんが事故死をとげているわけですよね。

長田 たった1人の弟が死んでしまうということもありました。交通事故でしたが、交通事故がなんとなく蔓延してた時代。実際はよくわからないんです。調べる側も本当に何が起きたのか調べない。推察でしかないけど、秘密警察のような話も出てくる。極めて気持ちの悪い時代でした。

――チャスラフスカさん自身にはどんな困難が降りかかったのでしょう。

長田 彼女は「プラハの春」で民主化への流れを後押しした「二千語宣言」に署名をし、その後、政府に撤回を迫られても自分の意志を貫きました。ものすごい迫害を受けて、命が危ない、友達もみんな離れていく、という経験をしています。それも半年や1年ではなくて約20年。隣人が向こうから歩いてきて彼女に気づくと、すぐ道を曲がってしまう、とか。それは娘さんも覚えていました。人が避けていくということが近所でも頻繁に起きる。非常に孤立します。

 そして仕事を与えられない。表舞台の仕事はもちろん、ベラ・チャスラフスカという名前は世界的に有名なので、その人がこんなことしかさせてもらえないと、諸外国から思われると国としてもまずいので、一切の仕事が与えられませんでした。だから名前を変えて変装して、掃除婦をしていた時代もあります。2つの五輪(東京とメキシコ)で7つの金メダルを獲りながら、あっという間に違う人生になってしまうんです。その一方で、撤回をすれば良い生活ができるとか、国を代表するコーチになれるとか、甘いエサを目の前に出されても、意志を変えませんでした。

――オシムさんはどんな不自由を味わったのでしょう。

木村 92年から、(セルビア人勢力による)サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都)包囲戦というのが始まります。その時彼は国外のベオグラード(現在のセルビアの首都)にいたわけですけど、奥さんと娘さんが2年半、サラエボに残された。特別な計らいで出国することもできたのですが、奥さんはそれを潔しとせず、自分だけ脱出するのを拒んで残ったわけです。その間いつも生命の危機にさらされていた。水もガスも出ない。水を5キロ離れたところに取りにいくためにスナイパー通りというところを通るのですが、そこで撃たれて殺された人を見てきた。一度オシムさんの家に招かれた時に見せてもらったんですけど、床にものすごく大きな補修をした跡があるんです。ものすごい数の銃弾が撃ち込まれてるんですよ。「これ、うちのトロフィーです」と言って見せてもらったクッキー缶には本当に撃ち込まれた弾丸が何十発と入っていた。奥さんと娘さんが生き残ったのは奇跡だと言えるほどです。

 東側のソ連・東欧圏と西側諸国による東西対立の時代が続いたわけですが、ユーゴに関して言うと、チトー(大統領)の非同盟中立政策によって、どちらの陣営にも属さず、それでいて経済的にも立派に発展していた。むしろチェコでベラが苦労した68年頃というのは、ユーゴスラビアにとって自由を謳歌していた時代だし、80年代の初頭くらいまでは、ユーゴは東欧諸国では夢の国と言われていたんです。ところがチトーの死(80年)が1つの契機となって、もともと多民族国家であったユーゴで、それぞれの民族が権益を主張し出す。これが最終的には内戦までいってしまった。ほんの数年の間で、それまで仲良かった隣人同士がただ民族が違うというだけで殺し合いをさせられてしまうようになった。

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