羽生結弦、五輪連覇の舞台裏 ケガで欠場中に取り組んだ「勉強」で成長 (4ページ目)
迎えた2月16日のSP。羽生は周囲の危惧を吹き飛ばすような完璧な演技を見せた。冷静な集中力を身体中にみなぎらせたように滑り出すと、「4回転サルコウは朝の曲かけ練習で失敗したので若干不安もありましたが、調整法も含めてスケートができない時期に書籍や論文などで勉強したものが出せました」と羽生。最初の4回転サルコウから最後まで一瞬もよどむことがない、流れるような演技だった。
得点は自己最高に迫る111.68点。2位のフェルナンデスに約4点差をつけての首位発進を決めた。
「本当に練習どおりです。すべてのことを自分の身体が覚えていると思ったし、とにかくアクセルもトーループもサルコウも、何年間もずっと一緒につき合ってくれたジャンプなので。そういう意味では感謝をしながら跳んでいました」
しかし、まだ痛みは残っていて痛み止めを服用しての演技だった。翌日のフリーでは「ケガをしたからいろいろ考えることもあったし、作戦も学んだし、『勝つためにここに来たのだ』という気持ちがありました」と、4回転ループを回避し、4回転4本とトリプルアクセル1本の構成に決めた。
羽生は最終グループ4番滑走で、SP2位のフェルナンデスと3位の宇野昌磨があとに続く滑走順だった。SPと同じように冷静に滑り出し、最初の4回転サルコウと次の4回転トーループをGOE(出来ばえ点)加点満点のジャンプにすると、後半の4回転サルコウ+3回転トーループもきれいに決める。
次の4回転トーループは着氷を乱して予定していた3連続ジャンプにできなかったが、それでもトリプルアクセルをつけてリカバリー。最後は「跳べるようになったのもギリギリ。痛みとの戦いのなかでなんとか跳べるようになったジャンプ」という3回転ルッツをどうにか堪えて、ミスを最小限に抑えて滑りきった。
その得点は206.17点。フリーでは4種類6本の4回転を跳んだチェンに及ばない2位だったが、合計317.85点で男子シングルとして66年ぶりの五輪連覇を果たした。
羽生はメダルセレモニーのあと、笑みを浮かべながらソチ五輪との違いをこう語った。
「ソチの時のがむしゃらさとは違い、今回は本当に『(メダルを)獲らなきゃいけない』という使命感もあったし、だからこそ『逃したら......』という気持ちも少なからずありました。19歳の頃は(五輪本番まで)もっと時間があると思っていたけど、今回の五輪は『もう時間がない。こうやって大きな舞台で演技ができるのがあと何回あるかわからない』という緊張のなかでの戦いだったので、ある意味、五輪(というもの)を強く感じられたのかなと思います」
羽生の凄まじい精神力をあらためて実感させる大会だった。大会最終日のエキシビションで羽生は大トリを務め、2016年カナダ大会でタチアナ・タラソワ氏に「ぜひ踊ってほしい」とプレゼントされた『Notte Stellata(星降る夜)』を舞った。
ソチ五輪のエキシビションで披露したのは、東日本大震災が発生したシーズンのSP『ホワイトレジェンド』だった。それぞれの選択について、羽生は次のように語った。
「ソチの『ホワイトレジェンド』は震災の頃の経験を重ねたものになっていた。でも今回はさらに羽ばたくような振り付けもあるので、震災から立ち直った皆さんが少しでも元気になり、明るくなるような気持ちを込めた演技ができたらなと思って滑りました」
五輪から帰国後、右足関節外側靱帯損傷、腓骨筋腱損傷と診断された羽生。代表に決まっていた世界選手権出場を断念し、このシーズンを終えた。
<プロフィール>
羽生結弦 はにゅう・ゆづる/1994年12月7日生まれ、宮城県仙台市出身。2009年ジュニアGPファイナル、2010年世界ジュニア選手権を制覇。2014年ソチ五輪で日本男子フィギュアスケート初の金メダルを獲得すると、2018年平昌五輪では66年ぶりとなる男子シングル連覇を達成。その間、世界選手権2度優勝、GPファイナル4連覇など数々の偉業も遂げる。2022年、北京五輪(4位)に出場後、同年7月にプロへ転向。自身で企画・プロデュースを手掛ける単独アイスショーを開催するなどプロスケーターとして精力的に活動している。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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