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「あの緊張感を捨てがたかった」高橋大輔が3度目の五輪に挑んだ背景と満身創痍でも信じた奇跡 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【いいことも悪いことも経て挑んだ最後の大舞台】

 ソチ五輪では世界選手権3連覇中のチャンがいて、彼にGPファイナルで勝利して全日本も制していた羽生結弦もいる状況だった。高橋はソチに入ってからは「今のすべてを受け入れてやれることだけをやる」という気持ちになったという。

「正直なところ、自分の調子と周りの状態を見ればメダルは厳しいというのは100%わかっていました。ただ何が起こるかわからないというのが五輪だというのは2回経験している部分でもあったから......。厳しいとはわかっていたがメダルの希望は捨てませんでした」

 そのSP、最初の4回転トーループは両足着氷のダウングレードだったが、そのあとの要素はしっかりまとめて86.40点を獲得。先に滑った羽生の101.45点とチャンの97.52点には大きく離される4位だったが3位以下は、3.50点内に9選手がひしめき合う状況。そのし烈な銅メダル争いには踏みとどまった。

 しかし、その戦いは厳しかった。「4回転ジャンプには不安があったので、そこは『奇跡を信じて』というのに近かったところはありました」と話す翌日のフリー。1本にした4回転はダウングレード判定になってメダルの可能性が消えると、後半最初のトリプルアクセルも回転不足で減点となる。結局、合計は250.67点で、SP11位の町田樹にも逆転される6位だった。

 だが、『ビートルズメドレー』に乗った高橋の滑りは印象的だった。4回転ジャンプの失敗でも流れは途絶えず、そのあとの2本のジャンプをきれいに決め、しなやかなステップシークエンスは観客の心をつかんだ。

 研ぎ澄まされた集中力と凝縮された緊張感が生み出す、静謐(ひつ)とも言えるしなやかな演技は、ひと筋の細い光となって見守る者一人ひとりの心の奥深くまで染み込んでくるようだった。「自分の演技だけは出しきりたいと強く思っていた」(高橋)という思いは貫き通した。

「6位という結果を見れば、『やっぱりバンクーバー五輪で終わっておけばよかったじゃないか』と思う人もいるかもしれないけど、自分としては2011年の世界選手権が終わってソチへ行くと決めてからの3年間はいいことも悪いこともたくさん経験した。そのうえで3回目の五輪に来ることができて、本当に続けてきてよかったと思います。

 バンクーバー五輪のあとでやめなかったのは、あの緊張感を捨てがたかったということもあると思います。この先いつか引退してしまっても、またやりたくなってくるのかもしれません。まだやめたことがないからわからないですけど」

 フリーが終わってから数日後に、笑いながらこう話していた高橋だが、1カ月後の世界選手権出場を辞退し、1年間の競技休養を表明。そして2014年10月には、現役引退を発表した。

 だが、ソチ五輪で漏らした言葉どおりに、2018年に現役に復帰して全日本選手権は2位になる。さらにシングルで2シーズン過ごしたあと、2020年からは村元哉中とカップルを組んでアイスダンスにも挑戦した。

 アイスダンスでの3シーズンの現役生活のなかで世界選手権にも2回出場し最高11位となり、アイスダンスへの注目度も高めた。これまでになかったロールモデルを提示して日本フィギュアスケート界に貢献し続けたのだ。

終わり

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<プロフィール>
高橋大輔 たかはし・だいすけ/1986年、岡山県倉敷市生まれ。8歳でスケートを始める。2002年世界ジュニア選手権優勝。2006年トリノ大会、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会と五輪3大会連続で入賞。バンクーバー大会では日本男子初の銅メダルを獲得。2014年に一度現役を退き、2018年に32歳で復帰。2020年にはアイスダンスへ転向し、村元哉中とカップルを結成。2022年全日本選手権で優勝。2023年に競技を引退し、現在はプロスケーターとしてアイスショーのプロデュース・出演を行なう。

著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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