小説『アイスリンクの導き』第18話 「取得と喪失」 (4ページ目)
「次、ドライニードルを打っていくから。腰は特に筋肉が張っていますね」
「膝の負担を軽減しようと、無意識に頑張っちゃうんですよね」
ドライニードルは、細いモノフィラメントの鍼で肌を通り抜けて筋組織のトリガーポイントまで直接挿入される。トリガーポイントとは収縮して固着してしまったコリに当たる筋繊維で、これはいくら外側からマッサージをしたり、ストレッチしたりしても、なかなかほぐせない。 鍼がトリガーポイントに到達すると、単収縮反応と呼ばれる現象が起こり、筋肉が緩む。筋肉の中で小さな風船が割れる感覚だろうか。そうやって、血流を改善させ、自然治癒力を促すのだ。
「翔平君は、ハムストリングがとても柔らかくて弾力があって、ここがパワーを生み出しているんですね。たくさんアスリートの身体を触っているけど、これは特別なギフトですね」
「ありがとうございます。早乙女さんにそう言ってもらえると、自信が湧きます」
「今日、あれだけ身体を躍動させても、これだけ回復できるのはすごいことですよ」
「いや、へとへとです」
翔平は苦笑いで言った。
「筋肉はすでに回復傾向に入っていますよ。フィギュアスケーター特有の体で、連日で戦えるように鍛えられているのかもしれませんね」
「マジっすか」
そう言われると、翔平は体が楽になってきた気がした。眠気すら覚える。体が回復したがっているのだ。
「最後に膝の炎症を和らげるため、そこは鍼を打ちますね」
早乙女は鍼灸師の資格も持っていた。西洋、漢方、どちらの医学的アプローチもいけるだけに心強い。
「ありがとうございます」
翔平は礼を言いながら、もう一度、仰向けになった。
早乙女が膝をさすりながら、いくつか鍼を打つのを感じた。部屋の天井を見つめながら、ちらりと早乙女が淡々と鍼を打つ姿に目をやる。
「痛いですか?」
少し手を止めて早乙女が言った。
「いや、大丈夫です。プロの顔だなって思って」
「何を言っているんですか? 翔平さんこそ、プロの鑑ですよ。あっ、でもスケート選手はプロではないのか? アマチュアの鑑? それも変ですね」
早乙女は笑いながら、慣れた手つきでするりと鍼を打ち込んだ。
「あ」
翔平は小さく声を上げた。なんだか照れてしまう。
「このまま20分から30分ほど、じっとしていてください。私は、そこで待っているんで。タブレットでも渡しますか?」
「あ、大丈夫です。少し眠気もあるので、目を閉じて明日のイメージトレーニングしながら」
翔平はそう言いながら、強烈な眠気に襲われる。明日は、波多野ゆかり先生の"届かなかった下書きだけの手紙"「10年後の翔平へ」を読むことに決めていた。正念場、とっておきのカンフル剤だ。
〈きっと、先生がそこにいるように感じられる〉
翔平は口元だけで笑った。
著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。
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