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小説『アイスリンクの導き』第15話 「フィギュアスケーターの条件」 (3ページ目)

 建物の中にあるウォームアップスペースで、翔平はじっくりと体をほぐしていた。いつもどおり、右膝は入念にケア。実戦を2大会やり遂げたことで、体は競技者時代に戻っていた。

 ウォームアップメニューはルーティンで、黙々と行うだけだ。
 
 凌太が指示することは何もない。実際、翔平はワイヤレスイヤホンをつけてアップしているから、自分の世界に集中している。そもそも、フィギュアという競技は、リンクにたった一人立って、2分40秒、あるいは4分という決められた時間内の一度の演技で、全員の注目を集めることを受け入れる資質が求められる。

 その点、サッカーや野球、バスケットボールやホッケーなどの集団スポーツとは違う。陸上のトラック競技やマラソンは個人スポーツで記録を争うが、同時に他の選手とも競う。走り高跳びは一人でバーに向かって挑むが、同じ競技場で複数のフィールド競技も行われており、同じ高さに3回までトライできる。柔道、レスリング、卓球、バドミントン、フェンシング、そしてスケート競技でもスピードスケートなど、すべて対決方式だ。
 
 フィギュアスケートは、孤高の精神が必要とされる。誰かに頼ることはできないし、誰かと同時に競うわけでもない。誰かのせいにしたりする人間は向いていないだろう。たった一人、荒野に立つ気概が不可欠だ。
 
 翔平は縄跳びで心拍数を上げていた。息遣いが荒くなる。心臓が全身に血液を行き渡らせていった。

「こんなもんかな」

 翔平が縄跳びを終えて言う。

「やりすぎは禁物。ここに来る前に勝負は決まっとる」

 凌太は言った。
 
「凌太らしいな。凡人っていうのは最後の最後まで気になるもんだよ」

「何を昔のことを。本当の天才は翔平じゃったって、もうわかっとるじゃろ」

「僕はコツコツやっただけ」

「それを」

 天才だという、と凌太は言おうと思ったが、不毛な会話をやめた。特別コーチについて、思い知らされたことがあった。世界のトップに君臨するには、ここまで自分を追い込まないとならないのか。もちろん、その姿は富美也のコーチ時代も見てきたが、ケガで思うようにならない体を、目を血走らせて動かす様子は尊敬に値した。粉骨砕身、決してあきらめない。

 凌太は、ため息をついた。決戦の日にもかかわらず、情念が体の中でのたうち回って、たくさんの言葉を紡ぎ出している。そんなものに何の意味もない。まったく自分らしくないことだ。

「ちゃっちゃとトップに立って、全員に思い知らせてやれ。ここに星野翔平ありって」

 凌太は雑念を振り払いたくて言った。

「えー、そんな簡単に」

 翔平は顔の汗をタオルで拭きながら返した。

「いーや、俺はそのためにお前のコーチになったんじゃ。俺のために絶対に勝ってもらわんとな」

「まあ、そうだけど」

 翔平はもじもじした様子だ。

「人生の正解なんて、くそくらえじゃ。ほうでもな、俺はお前に賭けたんじゃ。それが正解でええ」

「おう」

「星野翔平だけの演技、これから見せてくれよ」

「ほうじゃな」

 翔平も真っ直ぐに視線を返した。

「ああ、氷の導きがあらんことを」

「うん」

 臨戦態勢は整った。

著者プロフィール

  • 小宮良之

    小宮良之 (こみやよしゆき)

    スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。

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