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【プロレス】「最初はぶっちぎっていると思っていたのに...」 中邑真輔が明かす棚橋弘至への嫉妬心 (2ページ目)

  • 井上崇宏●取材・文
  • 市川光治(光スタジオ)●構成

【棚橋弘至の安定感という名の強さ】

── そして2004年11月13日、大阪ドームでやる流れに持っていったわけですよね。

中邑 そうしたら猪木事務所の介入があって、直前にカードが変更になった。しかもアントニオ猪木による中邑への鉄拳制裁があり。そして翌年(2005年)の1・4東京ドームで棚橋vs中邑初対決を皮切りに、ふたりのシングルが何度も繰り返されるようになった。

── 純粋なプロレスの闘いを提供しようとする新日本の代表的なカードとして。

中邑 だから時代の流れ的にプロレスと総合格闘技が混同している時代の後半あたりに僕が出てきて、K−1とかPRIDEというものに一矢報いる形で、自分はジャンプスタートを切ることができた。そこで総合格闘技参戦にひと区切りすると同時に、ファンや世間の間ではプロレスと格闘技の棲み分けが徐々に進んでいった。そうした流れのなかで、いわば"一日の長"というか、純粋にプロレスを何試合も積み重ねてきた棚橋さんに対し、僕はどこか博打的な姿勢もあったので、試合の当たり外れが激しかったんですよ。

── いざ純粋なプロレスで勝負すると、棚橋選手とは差があった。

中邑 棚橋さんが着実にプロレスの実績を積み上げてきたなか、自分はすぐに階段飛ばしでやろうとしていた。それはそれで必死だったんですけどね。ただ、たまに90点を出す中邑よりも、安定して75点を出し続ける棚橋弘至のほうが起用されるし、チャンスも与えられるわけです。

 そういう時代がけっこう長く続いたんじゃないかな。僕の記憶だと、最初にCHAOSを立ち上げる頃までは、棚橋さんに対して悔しい思いを持ち続けていましたね。「最初はぶっちぎっていると思っていたのに......」という感じで。

── 格闘技との棲み分けが済むと、棚橋弘至がやってきたことが正しいということになったわけですね。

中邑 そういうふうな流れでしたね。

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