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【プロレス】「将来は何をやろうかな」 72歳になる藤波辰爾が語る未来と、棚橋弘至が流した涙のワケ (4ページ目)

  • 取材・文/井上崇宏 取材・構成/市川光治(光スタジオ)

── しかも藤波さんは、ご家族ともずっと仲が良いですもんね。

藤波 なんでだろうね? 我が家はみんな絶えずいろんなものに興味を持って生きてるんだよね。

── 現代のジェンダー平等みたいな意識を、藤波さんはずっと昔からお持ちだった気がするんですよ。

棚橋 奥様ファーストだし。

藤波 いやぁ、オレなんかはあるがままだね。自分でできること、自分でやらなきゃいけないこととかは全部やっちゃうし。オレの両親はもう亡くなっていて、家内のほうは、お義母さんがまだ健在なんだけど、時折、家内が留守の時はオレがお義母さんの介護をやってるしね。オレ、介護やらせたらうまいんですよ。介護士さんにも褒められたもん。「藤波さん、介護の勉強をされていたんですか?」って。

── それは付き人時代の経験がいきているんじゃないですか?

棚橋 たしかに。

藤波 ふつうなら力任せでやっちゃうけど、介護にはコツがあって、あれも要するにテコの原理でやるんだよね。オレ、介護はうまいよ。

棚橋 すべての経験がそんなところでもいきている。

藤波 本当にこれからの棚橋くんには期待しているし、応援しています。オレは坂口さんのように細かい経営のアドバイスなんかはできないけど、違うカタチでどこかで協力できることがあれば。

棚橋 はい! お力添え、よろしくお願いします。

藤波 でも現役を辞めても、社長業に専念しても、"棚橋弘至"は絶対になくさないようにね。本来の自分であり続けるように。

棚橋 自分の芯がブレないようにがんばります。

藤波 棚橋くん自身が輝いていないとダメだと思うから。

棚橋 はい! 社長なのに選手よりも輝きたいと思います(笑)。

おわり


棚橋弘至(たなはし・ひろし)/1976年11月13日生まれ。岐阜県出身。大学時代からレスリングを始め、98年2月に新日本プロレスの入門テストに合格。99年に立命館大学を卒業し、新日本へ入門。同年10月10日、後楽園ホールにおける真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2006年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して第45代王座に輝く。09年、プロレス大賞を受賞。11年1月4日、小島聡を破り、第56代IWGPヘビー級王者となり、そこから新記録となる11度の防衛に成功した。23年12月23日に新日本プロレスの代表取締役社長に就任。26年1月4日の東京ドーム大会で引退する

藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)/1953年12月28日生まれ。大分県出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門し、翌71年5月9日デビュー。72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦の第1試合に出場。同年12月に開催された第1回カール・ゴッチ杯で優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチのもとで修行を積み、 78年1月にWWWFジュニアヘビー級王座を獲得した。81年末にヘビー級転向を宣言。長州力との戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれファンを魅了。99年6月からは5年間に渡り新日本プロレスの代表取締役社長を務めた。06年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げ。 08年より団体名を『ドラディション』へと変更した

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