髙田延彦のUWF参戦は「1試合だけ」のはずだった 元東スポ記者が振り返る、新日本プロレスに翻弄された若手時代 (3ページ目)
【"強さを追求するプロレス"へ】
――旗揚げから3カ月、1984年7月23、24日のUWF「無限大記念日」興行に、佐山さんが参戦。約1年ぶりのリングでした。
柴田:UWFに初代タイガーの佐山さんが合流。だけど、佐山さんは格闘技志向が強かったので、UWFは思っていたものと違ったんじゃないかな。話し合いもしていたのだろうけど、結局はいろいろと揉めて、先ほど話したような不穏な試合が続くことになった。
――佐山さんは1985年10月に第1次UWFを抜け、格闘技"修斗"を立ち上げました。
柴田:やはり 「自分の理想には、自分で辿り着くしかない」ということだと思います。でもそれが、今のMMA(総合格闘技)の礎になっていますね。
――新日本時代と、第1次UWF時代の髙田さん、柴田さんから見て変化した部分などはありましたか?
柴田:スタイルはそんなに変わっていないけど、UWFは求めるものが違っていました。スープレックス、サブミッション、打撃に特化したというか......髙田さんも"魅せるプロレス" ではなく "強さを追求するプロレス" に重きを置くようになった印象があります。
――1985年12月にUWFが新日本と業務提携。1986年1月に猪木さんへの挑戦権を賭けて、5選手による「UWF代表者決定リーグ戦」が開催されました。藤原さんが優勝し、2月6日に両国国技館で猪木さんと対決しました。
柴田:ファンとしては猪木さんvs前田さんを期待していたと思うけど、藤原さんが残りましたね。
――藤原さんは敗けましたが、その直後に前田さんがリングに乱入し、猪木さんにハイキックを見舞いダウンさせました。前田さんは、反則技を織り交ぜていた猪木さんに激昂し、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!」と批判しました。
柴田:そこで、 "次は猪木さんvs前田さんか" とファンの機運も高まったんですが、一騎打ちはやっていない。猪木さんとしては、ストーリーをちゃんと温めてからという考えがあったんだと思います。
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