ケンコバが振り返る越中詩郎の「禁断の試合」 ザ・コブラのための大会で目撃したある異変 (2ページ目)

  • 松岡健治●取材・文 text by Matsuoka Kenji

――ルー・テーズ杯は当時、全日本が若手のために開催したリーグ戦ですね。優勝者には海外武者修行の"ご褒美"がついていました。1983年の4月22日に札幌・中島体育センターで行なわれた決勝戦で、越中さんが三沢光晴さんを破って初の海外遠征の切符をゲットしました。

「この試合はテレビ中継されて、俺も『全日本に活きのいい若手選手が出てきたな』と期待しました。海外でさらに飛躍するんだろうと思っていたんですけど、メキシコに旅立ったのは優勝から11カ月後の翌84年3月です。しかも、準優勝で切符がないはずの三沢さんと一緒という......ある意味では、この時から団体内でも外様だったのかもしれません」

――メキシコでは「サムライ・シロー」のリングネームで活躍しますが、紆余曲折があって全日本を退団。1985年の夏から新日本プロレスに参戦します。

「しかも新日本の所属ではなく、所属選手は越中さんがたったひとりという『アジアプロレス』という団体の選手として参戦したんですよね。このアジアプロレスから、越中さんの"外様人生"が本格的に始まりました。そこから時を経て、反選手会同盟、平成維震軍......どこにいても外様だったんです」

【試合開始早々に、ザ・コブラから強烈な一発】

――2003年3月に旗揚げされた「WJプロレス」では所属選手でしたが......。

「WJ......この団体についてもいつか、しっかり語らないといけないですね。WJは、越中さんにとっての"黒歴史"という意味で、外様と同義語だと俺は思っています。

 越中さんは外様で生きてきたからこそ、『この試合の出来次第では冷遇もあるぞ』っていうターニングポイントがめちゃくちゃ多いんです。しかも、頑張れば頑張るほど冷遇されるかもしれないといったギリギリの戦いが本当に多い。

 前置きが長くなりましたが、そんな危機に立たされた試合を、俺は『禁断』と呼んでいるんです」

――なるほど。

「冷遇の危機を俺が初めて理解した試合が、1986年2月6日、両国国技館でのザ・コブラ戦です。当時、俺は中学生だったんですが、『この試合で越中さんが頑張りすぎちゃったら冷遇されるぞ』と感じ取りました」

2 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る