WWEに門前払い→トリプルHも絶賛でオファー増加 里村明衣子が振り返る海外挑戦と、日本女子プロレスの現状

  • 尾崎ムギ子●文 text by Ozaki Mugiko

■『今こそ女子プロレス!』vol.17

里村明衣子インタビュー後編

(前編:15歳から始まった壮絶プロレス人生  初戴冠後、「本当のチャンピオンじゃない」と愕然とした>>)

 2001年12月15日、アジャコングとのタイトルマッチに勝利し、GAEA JAPANの生え抜き選手として初のAAAWシングル王者となった里村明衣子。しかし、女子プロレス人気の下降と共にGAEA JAPAN も客足が遠のき、自らはパチンコにハマり、椎間板ヘルニアで長期欠場も。そして2005年4月10日に、GAEA JAPANが解散を発表した。

 どん底まで落ちた里村は、そこからどう這い上がっていったのか。

15歳からリングに上がり続ける里村明衣子 photo by ぺぺ田中15歳からリングに上がり続ける里村明衣子 photo by ぺぺ田中この記事に関連する写真を見る

【後輩がようやく育ってきた矢先に...... 】

 GAEA JAPAN解散後は、語学留学するつもりだった。15歳からプロレス界で生きてきたことで凝り固まった考えを広げなければと思った。しかし解散の2日後、当時みちのくプロレス社長だった新崎人生に声を掛けられ、宮城県仙台市を拠点に「センダイガールズプロレスリング」(以下、仙女)を旗揚げすることになった。

 新人募集のポスターを貼ってもらうため、ひとりで飛び込み営業までしたが、オーディションに来たのはたったの3人。全員、運動経験はなかったが、仕方なく全員を合格させた。

 GAEA JAPAN解散の大きな理由として、「新人を育成できなかった」という点がある。里村はまず、そこを改革しなければいけないと考えた。しかし、それまで後輩の面倒などろくに見たことがなく、初めて人に教える立場になって戸惑うことばかりだった。人づき合いを避けてきたが、人と向き合わなければならなくなった。

「練習後に後輩たちを食事に連れていって、レストランで会話をするところから頑張りました。『どうしよう、何を話せばいいのかな?』って、緊張しましたね。仙台幸子のオーディションの日も、帰りに幸子を車で送る途中、緊張しすぎて交通事故を起こしちゃって......。そのくらい、人と話すことが恐怖でした」

 練習を1カ月ボイコットされたこともあるし、後輩たちに「パワハラ」と罵られたこともある。それでも里村はあきらめることなく、彼女たちと向き合い続けた。

 2011年、順調に後輩が育ってきて「いよいよここから」という時、東日本大震災が起こる。道場は被害が少なかったが、事務所は建物が半壊。団体を解散するかどうかの話し合いが行なわれ、里村は新崎人生から独立し、代表取締役に就任する決断をする。

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