ジャイアント馬場は言った「UWFは人に見せるものじゃない」 全日本プロレスの名物実況アナが振り返る馬場の哲学 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 平工幸雄/アフロ

 1980年代後半は、前田日明が設立した「新生UWF」が絶大に支持された時代だった。キック、関節技を駆使する格闘技スタイルのプロレスは、相手の技を受け止めずに攻めることで"強さ"を訴えるプロレスだった。

「受け身を大切にしていた馬場さんは、当時、あれだけ人気があったUWFについて『あれは、人に見せるものじゃない』とおっしゃっていました。『ああいうものは、自分を守るために身につけるもの。俺だってできるんだぞ』と」

 馬場から「俺だってできる」という言葉を聞いた若林は、のちにそれを体感することになる。当時、早稲田大の学園祭に呼ばれた馬場は、司会を務めた若林にスタンディング式アキレス腱固めを極めたのだ。

「1回目はまったく痛くありませんでした。すると、2回目はポイントを5ミリぐらいズラして固められたんですが、すさまじい激痛が走りました。馬場さんは、極めるポイントを知っていたんです」

【旗揚げ20周年の豪華タッグマッチを実況】

 プロレスの極意を体で教えられた若林が、万感を込め、馬場を実況した試合がある。

 1992年10月21日、日本武道館で行なわれた旗揚げ20周年記念特別試合。馬場がスタン・ハンセン、ドリー・ファンク・ジュニアと組み、テリー・ゴディ、アンドレ・ザ・ジャイアント、ジャンボ鶴田と対戦した6人タッグマッチだ。

 全日本プロレスの歴史に偉大な功績を刻んだレジェンドたちが揃った豪華6人タッグマッチは、6人がそれぞれのテーマソングに乗ってひとりずつ入場した。

 大トリで、馬場が『王者の魂』が流れる中で花道に現れた時、若林は「昭和35年9月30日、ひとりの偉大なレスラーがデビューしました」と足跡を辿った。そしてコール時には、「世界の巨人、ジャイアント馬場!キング・オブ・スポーツ・プロレス。そしてキング・オブ・プロレス・ジャイアント馬場! あの16文キックでレスラーの喜び、怒り、悲しみを僕らに教えてくれました」と、自らの少年時代を重ね合わせるように実況した。

「あの時は、入場で6人を実況しなくてはいけなかったので、前日は徹夜で資料を作りましたよ。馬場さんを実況できることは、私にとって特別でした。何しろ、子供の頃の私はジャイアント馬場になりたかったんですから。これ以上の幸せはありませんでした」

 馬場はそれから約7年後、1999年1月31日に61歳で急逝した。しかし今も若林の中では、あの日に実況した誇りが消えることはない。

(敬称略)

◆連載2:ジャンボ鶴田を変えた天龍源一郎との「鶴龍対決」そのふたりの対極的な姿を目撃した>>

【プロフィール】
若林健治(わかばやし・けんじ)

1958年、東京都生まれ。法政大学法学部を卒業後、1981年に中部日本放送に入社。1984年、日本テレビに入社。数々のスポーツ中継を担当するほか、情報番組などのナレーターとしても人気を博す。2007年に日本テレビ退社後は、フリーアナウンサーとして活躍している。

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