ジャイアント馬場は言った「UWFは人に見せるものじゃない」 全日本プロレスの名物実況アナが振り返る馬場の哲学 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 平工幸雄/アフロ

【プロレスは「受け身」UWFは「人に見せるものじゃない」】

 少年時代に、それほどまで心酔していた馬場と若林が出会う時が来る。

 若林は1981年に法政大を卒業し、愛知県のTBS系列「CBC」に入社。そこを3年で退社して1984年4月に日本テレビに入社すると、翌5月に担当した番組が「全日本プロレス中継」だった。

 担当が決まり、初めて試合会場に向かった。場所は後楽園ホール。そこでプロデューサーに連れられ、馬場にあいさつをした。"神"とまで憧れた人物との初対面で、若林はあいさつをすると同時に、子供の頃からどれほど馬場の試合に熱中していたか、プロレスが好きだったかを話したという。

「馬場さんは、私の話を黙って聞いているだけでした。ただ、この日の試合が終わって会場から帰る時に、元子夫人に呼ばれたんです。すると元子さんが『馬場さんが言ってたわよ。あの子はプロレスが好きだって』とおっしゃってくださったんです。それは嬉しかったですね」

 プロレスの情熱をそのままマイクにぶつけた若林の実況は、次第にファン、関係者に認められていった。しかし、憧れの馬場の試合を実況する機会は少なかった。

 理由はふたつ。まずひとつは、若林が「全日本プロレス中継」を担当した1984年当時、チーフアナウンサーは倉持隆夫が務めていたこと。テレビで放送されるのはだいたい3試合で、セミファイナル、メインイベントはチーフの倉持が担当するため、馬場が出場するメイン級の試合を任せられることはなかった。

 もうひとつは、若林が担当した頃から馬場がメインクラスの試合から離れ、テレビ放送される試合への出場が少なくなったこと。さらに、放送時間が1985年10月から土曜夜7時からになると、馬場は解説者を務めたため、選手として画面に登場する機会が激減した。

 馬場の試合を実況する機会は少なかったが、アナウンサーと解説者として若林は馬場のプロレス観に間近で接することができた。

「馬場さんは、プロレスで最も大切なことは『受け身』だ、とおっしゃっていました」

 相手の技を真っ向から受け止めることがプロレスの醍醐味。その「受け身」の技術があってこそ、観客はレスラーが繰り広げる攻防に熱狂する。

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