アントニオ猪木が生前に語った、アリ戦での挫折を救ったタクシー運転手の言葉と「引き分けでよかった」理由 (4ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Belga Image/アフロ

「アリと闘ったことを世界は評価してくれたんです。それまでパキスタンはまったく知らない国だったんだけど、そんな国からオファーがあった。それが俺は嬉しかった。アリとやったことで俺の名前が世界に広がったということ。それは金に変えられない出来事だった」

 猪木さんは20億円とも言われる莫大な借金を抱え、新日本プロレスを経営危機に陥れた。経営者としては失格だろう。しかし、世界に「アントニオ猪木」の名前を広める"リターン"を獲得した。副社長の坂口氏はこう言った。

「確かに会社は大変だったよ。でもアリとやったことで、ファンは『猪木なら何かやってくれる』と期待して、ひいては『新日本プロレスは何かをやる』っていう興味を引くことになった。それは会社としての力にもなったよね」

 猪木さんにとっての最大の収穫は、アリと友情で結ばれたことだった。パーキンソン病に冒されながらも、アリは猪木さんがプロデュースした1995年4月の北朝鮮・平壌でのプロレスイベントに来場。さらに東京ドームの引退試合にもゲストとして参加した。闘いを通じた交流。これも猪木さんの世界観だった。

「もしアリ戦で俺がヒジを顔面に入れていたら、その後のアリとの友情はなかった。そういう意味で、引き分けでよかったのかなと思う」

 成功か失敗か。そんなことはわからない。それでもリスクをかけて勝負する大切さを猪木さんは教えてくれた。その頂点がモハメド・アリとの一戦だった。当時は批判を集めたが、今では世界中で「総合格闘技の原点」と評価される試合となった。

 歓喜と失意を繰り返した猪木さんのプロレス人生。それを支えたのは「元気があれば何でもできる」の精神だった。難病指定の「心アミロイドーシス」を公表した晩年の取材では、こう明かしていた。

「これは本当にいい言葉だと思う。今、俺自身、体がボロボロになって『元気』の大切さを身に染みて感じていますよ。この元気こそが俺の源で、それは誰にとっても大切なことなんじゃないかな」

 猪木さんの肉体は天へ。しかし、「燃える闘魂」は永遠に不滅だ。

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