藤波辰爾に突然ジャンボ鶴田からの電話。食事の約束もまさかの事態で実現しなかった (2ページ目)
猪木と馬場が袂を分かってから接点はなくなったが、藤波は独断で馬場に会いに行ったことがある。1990年4月に天龍源一郎が全日本を退団し、大手メガネ販売チェーン「メガネスーパー」が親会社になった団体「SWS」に移籍した直後の、全日本の東京体育館大会(5月14日)の試合前だった。
「あの時は、選手が離脱した馬場さんが心配になってどうしても顔が見たくなり、独断で試合前の控室を訪ねたんです。アポなしだったにもかかわらず、馬場さんは笑顔で迎え入れてくれました。僕は椎間板ヘルニアで長期欠場中だったので、逆に心配していただいたことを覚えています」
馬場はそれから9年後の1月31日に、61歳でこの世を去った。憧れだった馬場との対戦は叶わなかったが、藤波の胸には今でも穏やかな笑顔が刻まれている。
全日本にはもうひとり、ファンに待望されながら試合が実現しなかった相手がいた。ジャンボ鶴田だ。
鶴田は中央大時代、レスリングでミュンヘン五輪に出場し、それを見た馬場から全日本にスカウトされて1972年10月に入団した。翌年3月にアメリカでデビューを果たすと、凱旋帰国後の10月6日に国内デビュー。3日後には馬場とタッグを組み、ドリー、テリー兄弟の"ザ・ファンクス"が持っていたインターナショナルタッグ王座に挑戦するなど、すぐにメインイベンターに抜擢される破格の待遇を受けていた。
WWWFジュニアヘビー王座を獲得した藤波が1978年に帰国して以降、2人はプロレス界の"次世代エース"として専門誌などで比較されるようになった。
接点が生まれたのは、1979年8月26日に日本武道館で行なわれた「夢のオールスター戦」でのこと。同大会は東京スポーツ新聞社が主催し、新日本、全日本、国際プロレスの3団体が参加する画期的な大会で、藤波は鶴田、ミル・マスカラスとトリオを結成し、マサ斎藤、タイガー戸口、高千穂明久と戦った。当時25歳の藤波と28歳の鶴田は、マスカラスとの"トリプルドロップキック"を披露するなど、ファンを大いに沸かせた。
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