2021.05.14

藤波辰爾に突然ジャンボ鶴田からの電話。食事の約束もまさかの事態で実現しなかった

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(6)ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田 

第5回:闘魂三銃士のブームと混乱>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の第6回は、新日本プロレスとライバル関係にあった全日本プロレスの、ジャイアント馬場とジャンボ鶴田とのエピソードを語る。

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1979年8月の「夢のオールスター戦」でトリオを組んだ(左から)藤波、マスカラス、鶴田1979年8月の「夢のオールスター戦」でトリオを組んだ(左から)藤波、マスカラス、鶴田  昭和のプロレス界は、1973年4月に力道山が設立した日本プロレス崩壊後、アントニオ猪木が創設した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスが激しい興行合戦を繰り広げた。当時は、プロレスがゴールデンタイムで生中継されていた時代。新日本はテレビ朝日、全日本は日本テレビの強力なバックアップを受け、それぞれが独自のアイディアを競い合っていた。

「猪木さんは選手だけでなく、フロントや営業の社員などにも、常に『全日本に負けるな』とハッパをかけていました」

 藤波は猪木の指令に応えるように飛躍していったが、個人的にはジャイアント馬場に対するマイナスな感情はなかった。藤波が日本プロレスに入門した当時の絶対的なエースは、猪木ではなく馬場。それでも馬場は、新弟子の藤波にも穏やかに対応してくれたという。

「猪木さんと初めて会った時と同じように、馬場さんにも凄まじいオーラがあって、眩しかったですよ。体はもちろん、心も大きかったからそれだけのオーラを感じたんだと思います」

 日本プロレス時代は、巡業で宿泊する旅館の大浴場で、馬場の背中を流したこともあった。

「猪木さんと馬場さんが一緒に風呂に入る時は、猪木さんの付け人だった僕と、馬場さんの付け人だった佐藤昭雄さんも一緒に入りました。もちろん僕は猪木さんの背中を流すんですけど、ある日、馬場さんの背中を流したくなって、佐藤さんと入れ替わったことがあるんです。とにかく背中が大きすぎて、びっくりしましたよ(笑)」