【国際プロレス伝・最終回】夢は続く。アニマル浜口「国際魂」の叫び (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • 佐野美樹、原悦生●撮影 photo by Sano Miki, Hara Essei

国際プロレスを最後まで率いたラッシャー木村(左)国際プロレスを最後まで率いたラッシャー木村(左) もし、4人の先輩がいいライバル関係で互いに競い続けていたら、国際プロレスはもっと盛り上がって、ゆくゆくは後輩たちにうまくつながっていったんじゃないか――。マイティ井上さんとか、阿修羅・原とか、次の世代にはエースになれる可能性を秘めた選手が何人もいたわけですから。

 僕はそんなことを、今もときどき考えてしまうんです。

 いずれにしても、吉原功という昔気質(むかしかたぎ)の、一途で、反骨精神旺盛で、魅力あふれる男が巨大な既成勢力である日本プロレスに挑み、ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんという国民的ヒーローが引っ張る全日本プロレス、新日本プロレスにも負けまいと戦い続けた。それが国際プロレスであり、その吉原社長の男気に惚れて集まった男たちがプロレスを愛し、全力で戦い抜いたのが国際プロレスでした。

 団体が解散した後、どんな苦境に立たされようとも、国際プロレス出身のレスラーは吉原社長の志(こころざし)を忘れず、誇りを持って戦いました。ラッシャー木村さんも、マイティ井上さんも、寺西勇さんも、阿修羅・原も、冬木弘道も、菅原伸義も......まだまだいますし、そして僕自身も。所属する団体、立場は変わっても、みんなが吉原社長の教えを守って。

 しかし、1985年に吉原社長が亡くなると、2008年に草津さん、2010年に木村さん、2015年に原が後を追うようにして亡くなり、2017年には大剛鉄之助さんも亡くなられました。本当に寂しいかぎりです。それでも、「国際プロレスは死んでない。滅んでなんかいない。吉原社長の魂は受け継がれている」。僕はそう信じています。

 プロレスを引退した僕は、「原点に戻り、素っ裸になって新たに出発しよう」と決心し、1988年に東京・浅草に「アニマル浜口トレーニングジム」を開きました。『吉原功顕彰』の額を掲げて。

 もともと、大阪の「ナニワトレーニングセンター」でボディビルを始めたことがプロレスラーへの道の第一歩となったわけですが、ボディビルに励んでいたのは20年も前のこと。指導者となるには現役ボディビルダーの気持ちがわからなければならないと考え、ボディビルのコンテストに出場するため35kgの減量に挑みました。

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