【女子バレー】渡邊彩はパリ五輪メンバー落選での「精神崩壊」も乗り越えて 目指すはお世話になった元代表選手の最年長記録 (2ページ目)
【荒木絵理香の背中も追いかけて】
小学校ではセッターから始め、その後はレフトに転向した。中学でもバレーを続けて選抜にも呼ばれたが、バレーに人生をかける感覚とはほど遠かった。
変化の予兆は高校時代にあった。
「お前はミドルだ」
宮城の名門・古川学園高校で、入部と同時にそう言われたという。
「ステップが逆足だったので、その矯正から始まりました。しばらくはステップの練習ばかり。なんでミドルになったかはわからなくて......人数が少なかったからじゃないですかね?」
渡邊はおどけて言うが、天職のポジションだった。ワンレッグのブロードは、彼女の代名詞だ。
「高校で『プロでやりたい』という気持ちが次第に湧いてきました。古川学園は"絶対に日本一"というチームだったので、自然と『自分もうまくなりたい』となりましたね。Vリーグに行く先輩の姿を見て、その選択肢もあるんだなって」
道筋が見えると、渡邊は真っすぐ進んだ。高校卒業後、V・チャレンジリーグの三洋電機レッドソア、仙台ベルフィーユでプレーした。
「仙台では、当時の葛和(伸元)監督から『小さい選手がトップで活躍するには技術ないとダメ』と言われ、半年間、ティップだけを集中的に練習しました。自分のバレースタイルを確立するというか、よりスピードに磨きをかけ、ブロックアウトやティップのスキルを細かく詰めた期間でしたね」
しかし、ふたつのチームはどちらも活動休止。プレーする場所を奪われたが、彼女は現役続行を選ぶ。そしてVリーグのトヨタ車体に入団した。
「トヨタ車体では、(元日本代表で監督の多治見)麻子さんとの出会いが大きいですね。『ブロードだけじゃなくて、クイックも練習しよう』と言ってくれて。チャレンジリーグ時代は9割がブロードだったんですが、麻子さんにはクイック、ブロックも教えてもらいました。スキルにプラスして攻撃の形も学ぶことでバレーの世界が変わりました」
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