女子バレー日本代表・野中瑠衣の高校時代は「反抗的だった」 それを変えた恩師の言葉とは? (2ページ目)
【「嫌な生徒だった」野中を変えた恩師の言葉】
――クラブチームを指導されているのは、1984年ロサンゼルス五輪銅メダリストの利部陽子さん。小学生時代に学んだことは?
「もし他のチームに入っていたら、今のような競技人生にはなっていなかったと思います。バレーボールの基礎を教えていただきましたし、そこで身についたディフェンスの基本が今のプレースタイルの礎になっています。礼儀やマナー、挨拶も学んだので、社会人になってからも活きていますね。あの頃の私は、怒られるとすぐ泣いちゃう子どもでした。振り返ると『あんなに泣かなくても』って思うぐらいです(笑)」
――バレー選手として育った地元での試合はいかがでしたか?
「リヴァーレに入団して間もなくコロナ禍になってしまい、秋田大会はリモートマッチになってしまって......2季目はケガがあり、3季目は試合に出られれず、Ⅴリーガーになってから地元の秋田でプレーする姿を見せたことがなかったので、とにかく悔しかったです。
周囲からしたら『秋田で行なわれるリーグ戦の試合のひとつ』と思われるかもしれないけれど、私にとっては"秋田で試合がある"ことがチームを選ぶ際にも大きかった。たくさんの方々に支えられてきたので、だからこそ成長した姿を秋田のみなさんに見せたかったんです。4季目でやっと、自分がプレーして勝利を届けることができました」
――高校も地元の秋田北高校に進みましたが、県外の強豪校などに進むことを考えたことは?
「ありました。高校に進学する際に、県外の、それも全国大会で上位の成績を収める有力校に入りたい思いが強くて。かなり迷いましたが......『もう決めないといけない』という日の朝、起きてすぐに母に『北高に行く』と言いました。その時の素直な気持ちに従ったような感じです」
――そうして始まった高校生活で、選択を後悔したことはありませんでしたか?
「2年生になるまで、ずっと『転校したい』と口にしていました。環境や人間関係も含めて、『ここに来たかったわけじゃない』と思ったり......今振り返ると、すごく嫌な生徒だったと思います。めちゃくちゃ反抗的な態度をとっていましたし、『こんなはずじゃなかった』という目つきをしていたと思います」
――その思いはどのように変化したのですか?
「2年生の、何月かは覚えていないんですけど、体育館から教室に戻る時に顧問の戸嶋幸子先生と廊下で一緒になったんです。それで歩いていた時に、ふと先生が『自分で選んで、自分の足で瑠衣はここに来た。ここでどう生きるかは、瑠衣次第だよ』とおっしゃったんです。その言葉を受けて、私は『人のせいにしていたけど、選んだのは自分だ』と気づくことができて。変わったのはそこからですね」
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