高校最後の国体を制覇→全日本へ。大林素子が驚いた名将のデータバレーと、いつもどおりプレーするための秘策 (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

国体の優勝インタビュー直前に「全日本入りが決まったよ」

――春高バレーやインターハイでは、常に優勝候補に挙げられながらあと一歩届かず。3年時の国体で悲願の優勝を果たします。

「1年の時にチームはインターハイで優勝しているんですが、私はまだレギュラーではなかったので、優勝の実感があまりなかったんです。1年時の春高には出られましたが、益子直美さんがいた共栄学園に敗れて3位。それまでは、共栄学園にセットを落とすこともなかったので悔しかったですね。

 当時の春高は2年生までしか出られなかったので、翌1985年の大会が最後のチャンスだったんですが、"雑草軍団" と言われた古川学園に決勝で負けました。それでも、3年時の最後の国体でようやく日本一になれて、菊間先生に恩返しができた。その優勝インタビューに向かう前に、菊間先生から『おめでとう、全日本入りが決まったよ』と伝えられたんです」

――高校生で全日本入りを果たした時の気持ちを覚えていますか?

「実は、その1年前にも話はいただいていたんです。でも、当時は『高校生は最終学年まで学業に専念する』という雰囲気があって......菊間先生は『どんどん行ってこい!』とおっしゃってくださったんですが、実現できませんでした。すごく悔しかったですね。

 そんな経緯があったので、ようやく全日本に入ることができて感無量でした。その年はジュニア世界選手権に出場してから、日本で行なわれるワールドカップへの転戦でした。ワールドカップはバレー3大大会のひとつですし、日本戦はすべて地上波での放映がありましたから注目度も高く、それに出られることにワクワクしていました。中学生の頃、テレビで花輪晴彦さんや広瀬美代子さん、江上由美さん見て胸をときめかせ、下敷きに切り抜きを入れていたくらいでしたから」

――ワールドカップでのプレーはいかがでしたか?

「初戦でスタメンに選ばれたんですが、『私がスタートでいいのだろうか』と遠慮する気持ちが少し出てしまって。当時はワールドカップの前にもたくさん国際大会があったので、全日本デビューは済ませていたんですけど、国内で、しかも3大大会のデビュー戦は夢のスタメンとなりましたが、世界のすごさを感じた大会となりました。

 大会後に、山田先生から『素子、お疲れさま。次は日立で頑張ろう』と声をかけていただけたのが嬉しかったです。当時は『日立の選手たち=全日本のメンバー』という時代でしたし、そんなチームでプレーできたことは、自分がもうひとつ深いバレー人生に進んでいく第一歩になったと思います」

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