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齋藤真由美はバッシングの嵐でも禁断の移籍を決意。「この人にバレー人生をかけたい」と思う名将の言葉があった (3ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • 松永光希●撮影 photo by Matsunaga Koki

【バレーボールへの"恩返し"で2部チームへ】

――1997-98年シーズンの第4回Vリーグで優勝。しかし、ダイエー本体の不況の影響で休部が発表されます。

「聞いたのはリーグの途中でしたが、『どうせだったら優勝しよう』とチームが一丸となりました。私はダイエーで、黒鷲旗なども含めて4回も優勝を経験できて、その間にMVPもいただきました。『もう無理だ』というぐらい追い込みましたし、本当に濃厚な時間でしたね。

 その期間で、セリンジャー監督からはいろんな言葉をもらいましたよ。特に、『ハートはエンジンだ。思うように体が動かなくても、ハートのエンジンさえフルに活動していれば、必ず結果を出したい時に体は動いてくれる。それを信じて』 という言葉が印象に残っています」

――セリンジャーさんは名言の宝庫ですね。

「そうですね。あとは、決して理不尽な要求ではなく、経験や年齢が上の選手にハードワークを求める監督でした。若手はそれについていくという構図ができていた。経験豊富な選手たちはみんな"何クソ根性"が強かったので、そういう指導で燃え上がる人たちばかり。『自分が一番だ』と思っている個性が強い選手も多かったですから、ただの"仲良しチーム"ではありませんでした」

――1998-99年シーズンは、オレンジアタッカーズと名前を変えてスタートしますが、セリンジャー監督は同シーズン限りで退任。齋藤さんを含む主要選手も一斉に移籍しました。

「その頃には『アスリートとして十分にやれた』という思いもあったんですが、私はバレーボールに生かされてきたので、"恩返し"じゃないですけど、自分の経験を若い子たちに伝えることがしたかった。セカンドキャリアで指導することも意識して、2部のパイオニアレッドウィングスを移籍先に選びました。当時のパイオニアは毎年のように入れ替え戦で負けていたチームでしたが、『何とか昇格して、日本一を狙いたい』という思いを強く感じていたので」

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