齋藤真由美はバッシングの嵐でも禁断の移籍を決意。「この人にバレー人生をかけたい」と思う名将の言葉があった (5ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • 松永光希●撮影 photo by Matsunaga Koki

【治療中の兄から「俺のために優勝してくれ」】

――そして2000年には、計画通りにセリンジャー監督が指揮官に就任します。

「セリンジャー監督はダイエー退任後、シカゴのプロチームの指揮を執ることになったんですが、私は『1年だけの契約にしてほしい』と頼みました。『私は必ずパイオニアを1年で昇格させてあなたを呼ぶから』と。大見得を切りましたが、何とか実現できてよかったです(笑)。

 彼がチームにくれば、自然と選手が集まってくる。吉原選手や佐々木選手、廃部になった日立からは多治見麻子選手など、日本代表クラスの選手たちが移籍してきました。そうしてチームは何度も優勝を経験する強豪になっていったんですが、セリンジャー監督は"本当の強さ"を作っていける人でしたね」

――齋藤さんは2003-04シーズンに選手兼任コーチとして、チームをリーグ初優勝に導き、現役を引退します。

「当時33歳の私に、チームが優勝の花道を作ってくれました。引退を決めた年は、私にバレーを勧めてくれた兄が脳腫瘍と白血病になり、すぐに引退して『看病をしたい』とも思いました。いろんな葛藤がありましたが、兄は『お前はまだ必要としてくれている人がたくさんいる。ひとりでも自分を必要としてくれる人がいるのなら、そのために頑張れ。何よりも、俺のために優勝してくれ』と言ってくれた。

 あの年の優勝で、"誰かのために"という力がどれだけ大きいかを実感しました。兄に優勝を報告したら、『厳しい治療に向き合う勇気をもらった』と話していましたね。兄はその後、41歳で他界しますが、今でも兄が残してくれた言葉どおり『ひとりでも必要としてくれる人がいるなら頑張る』という思いを持ち続けています」

(後編:「客寄せパンダ」にされた過去、益子直美と取り組む「怒らない指導」>>)

■齋藤真由美(さいとう・まゆみ)
1971年2月27日生まれ、東京都出身。1986年に15歳でイトーヨーカドーに入社し、エースアタッカーとして活躍。17歳で日本代表に選出された。その後はダイエー、山形県・天童市が本拠地だったパイオニアに移って活躍し、2004年に引退。引退後は解説者や天童市の教育委員などを経て、益子直美の「監督が怒ってはいけない大会」に参加。自身は「株式会社MAX8」の代表を務める。

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