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「バレーは2015年でやめようと...」それでも佐藤あり紗がリオ五輪に出場した理由 (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

現在は、リガーレ仙台の選手兼監督を務めている photo by Matsunaga Koki現在は、リガーレ仙台の選手兼監督を務めている photo by Matsunaga Koki――高校時代の活躍が、東北福祉大学の当時の監督で、元日本代表でもある佐藤伊知子さん(現同バレー部の部長)の目に留まったんですよね。

「古川学園の監督の勧めもあって、東北福祉大に進学しました。私は保育士になりたかったので、本当は違う大学も考えていたんですが......今では福祉大に入ってよかったと思っています。アンダーカテゴリーの日本代表に選ばれたのも、大学でリベロに転向してからだったので」

――リベロになったのは、佐藤監督の勧めですか?

「いえ、自分の判断でした。大学のチームの中で私は小柄(166cm)で、その中で存在感を示すにはどうしたらいいかを考えた末に、得意としていた守備を専門とするリベロになろうと決意したんです。それが大学2年生の、10月か11月だったと思います。それ以降は、スパイク練習には入らないで守備練習ばかりしました。

 でも、監督に『リベロとして起用してください』と言ったわけではありません。当然、チームにはもともとリベロの選手がいましたから、特別扱いをしてもらうような行動をとるのは違うと思っていました。あくまでアタッカーという立場で守備面をアピールして、その結果、監督に認めてもらえてリベロに転向することができました」

――大学卒業後、日立リヴァーレにもリベロとして入団し、1年目の2013年に初めてシニアの日本代表に選ばれました。2012年ロンドン五輪の翌年で、日本代表が新たな選手を試そうとしていた時期ですね。

「いろいろとタイミングと運に恵まれて、選出していただけたのかな、と思います」

――シニア代表での初試合は?

「2013年の8月に地元の仙台で開催された、ワールドグランプリ仙台大会ですね。その時も、いろんな事情が噛み合っての招集で、代表チームに合流したのも試合の3、4日ぐらい前でしたから、やはり運の力です。その年度の日本代表が発表される時点では、登録メンバーが40人くらいいるので、大会のメンバーに呼ばれた時は『まさか自分が?』という気持ちでした。

 最初はとても嬉しかったのですが、『私が仙台出身だからなのかな』とも思うようになって。その大会で起用されたのは3試合しかなかったですし、それ以降も代表で起用してもらえるように、『最後までボールを追いかけること、自分ができることをすべてやる』ことを自分に課しました」

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