1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音 (3ページ目)

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by Kyodo News

 翌1961年にはヨーロッパ遠征し、22連勝を挙げ、大きな脚光を浴びた。

「遠征の時は、食べ物が合わなくて大変でした。スープに枯れ葉が入ってる! こんなの食べられない!って。今から考えるとローリエだったんですけど、当時は分からなかったですから(笑)。パンも黒くて酸味があるものばかりで。白いパンにバターやジャムをつけたのがいいねって言い合いながら、夜食で日本から持ってきたインスタントラーメンや、インスタントごはんを食べていました。ちょうどその頃インスタントラーメンが新しく発売されたばかりで、喜んで持って行きましたね。スーツケースの半分は日本から持って行った食べ物でした」

 チームメイトの神田さんがいつも「白いパンにバターとジャム!」と日本語でリクエストして、最初はまったく取り合ってもらえなかったのが、あちこちで相手を倒していくうちに、要求が通るようになった。

「白いパンもジャムもバターもあったんですよ。でも、最初は出してもらえなかった。無名の小さな国からやってきたどうでもいいお客さんだったのが、勝ち進むうちに待遇が変わっていったんです。そういうことでも『ああ、勝つということは大事なことなんだ』と思い知りました」

 この頃、日本協会は東京五輪でのバレーボールの正式採用、そして、さらには女子種目としても採用してもらえるよう、副理事長の今鷹昇一を筆頭に、必死のロビー活動を繰り広げていた。  

 今鷹はIOC会長のブランデージに直訴し、長い手紙を書いて彼の後ろ盾を取り付けた。バレーボールの採用自体も二転三転したが、1961年6月21日のIOC委員の評決の前にブランデージの言った「バレーボールは純粋なアマチュア競技であり、しかも費用はあまりかからず、普及率も高い」という言葉が決定打となった。東京五輪でバレーボールは柔道とともに実施種目として認定され、翌年6月6日のIOC理事会で女子バレーの参加も認められた。

 しかし、一連の動きについて、選手たちはほとんど気にしていなかった。

「東京五輪でバレーをやることになったと聞いても、『へえ、日本でオリンピックをやって、そこでバレーをするんだね、すごいね』とほとんど他人事でしたね」

 というのも、井戸川さんら「魔女」たちは、すでに決意を固めていたことがあった。

「1962年の世界選手権でソ連を倒して世界一になったら、大松先生も私たちもみんな辞めるつもりだったんです。もう、とにかく自由になりたい、あの厳しい練習から解放されたいって思っていましたから。それに、結婚適齢期のこともありましたしね。それで世界選手権で優勝して、ご褒美にみんなで世界一周旅行に連れて行ってもらって、それでおしまいって」

 だが、自国開催の五輪での金メダルを期待する世間はもちろんそれを許してくれなかった。

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