【男子バレー】Vリーグ創設と松平康隆が最後に見た夢 (2ページ目)
小田によると、その資料には、日本バレーの更なる発展のために新たなチャレンジとして、1つめに6人制、9人制バレーに加えて、ビーチバレーの普及と、ソフトバレーの徹底普及を挙げ、2点目に、日本のトップ競技者およびトップ競技大会のプロフェッショナル化を挙げていたという。そして、プロ化によって競技が繁栄し、強化も成功した例として、イタリアとブラジルが挙げられていた。
松平と山田、小山は、バレーボール生誕100周年にあたる1995年を一区切りとし、次の100年単位での成長のためにはプロ化は避けられないと主張し、直近のアトランタ五輪ではメダル、2000年のシドニー五輪では金メダルを獲るとぶち上げた。小田からするとそれは「大風呂敷」にしか思えないものだった。小田は反論した。
「うちにも中垣内祐一(バルセロナ五輪出場、現全日本男子コーチ)というスーパースターがおりますが、彼にはバルセロナ五輪以降、プロ契約のオファーが海外から何回も来ております。でも、中垣内は新日鐵の社員であることを選んだのです。あの中垣内ですらそうなのです。だから無理です。そんなことは無理やと私は思います」
会合はもめ、松平は苦虫をかみつぶしていた。会議はその後も何度も開催されたが、なかなかプロ化を断行するという方向にはならなかった。その年(94年)の暮れ、Vリーグがスタートした。プロ契約選手の参加、プロチームの参加、外国人選手の参加の3点が認められた。
山田門下の日立ベルフィーユ所属の大林素子と吉原知子らはプロ契約を求めて辞表を提出したが、いったん慰留され、さらにまた急展開で、11月にVリーグ発足が発表されたとき、この2名は日立から解雇されてしまったのである。彼女たちはイタリアに渡ってプロ選手として再出発した。結局、日本のVリーグにはこの時日本人でプロ契約した選手は誰もいなかった。プロ化したチームも1つもなかった。
残念ながらJリーグ創設の時とは世情も違っていた。バブルはあえなくはじけ、企業は先の見えない不況に苦しんでいた。また、松平のスキャンダルが週刊誌を賑わせたりもした。結局、松平は健康上の問題を理由にバレーボール協会会長を退任。その後、バレーボール協会は1996年9月27日、プロ化の断念を宣言したのである。
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