アマチュア時代の錦織圭には「正直とても手を焼いた」 名コーチの指示に「それは現実的じゃない」と反論 (3ページ目)
だからケイを相手にする時は、伝え方にしても、練習方法にしても、いつも工夫が必要でした。時おり、彼はむくれて私に背を向けることもありました。私も、そんなに多くはありませんが、2度ほど練習中に怒ってコートを去ったことがあります。
ただ、当時の彼が置かれた状況を思えば、仕方ないとも言えるでしょう。彼は日本を離れ、ひとりアカデミーで戦っていた。『本当に自分はトップ選手になれるのだろうか』と、疑問を抱きもしたでしょう。あのくらいの年齢の子は、コーチや親にとっても扱いが難しい年ごろだと思います」
錦織がトップグループに引き上げられたこの時期、ともにIMGアカデミーに渡った富田玄輝氏と喜多文明氏は帰国していた。錦織はのちに、「この頃になって初めてホームシックを覚えた」と述懐している。
それでも、テニスへの真摯な姿勢が失われることはない。
「ケイが非常にいい子だなと思ったのは、練習で反抗的な態度を取ったあとは必ず、私のオフィスに来て『ごめんなさい、ゲイブ』と謝ったことです」と、ハラミロ氏も回想した。
ハラミロ氏が挙げる、錦織のキャリアにおけるもうひとつの大きなターニングポイント──。それは、2008年の初頭に訪れた。
「17歳の頃からケイはATPチャレンジャーを主戦場とし、結果も出していきました。ランキングも200位台に到達して、注目されるようにもなっていました。
そこで、長期のスケジュールを立てる際に、私はケイをオフィスに呼び、こう言ったのです。『ここからしばらくはATPチャレンジャーに出ず、ATPツアーにトライする。予選からの参戦になるが、今が次のステージへの移行期だ』と。ケイは、私の言葉に懐疑的でした。『まだ自分には早いのでは』と言っていたのです。
それからしばらくして、ケイが勝てない時期があった。ケイは『勝って自信を取り戻したいから、チャレンジャーに出たい』と言いました。でも私は、断固反対して言ったのです。
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